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悲しき軽運送屋の顛末記-25 [顛末記]

私の見た目はガタイが良い。身長180cm、体重84kg。とても病気などとは無縁に思える。それだけ運送業に向いている。なんて皆に口をそろえて言われる。
確かに若い頃は疲れ知らず、タバコ・酒も多いほうだったが大病をすることは無かった。
学生時代のアルバイトも左官屋、といってもビルの建築に組み込まれたモルタル(コンクリート)のこねる作業と、それを階上まで運ぶ足腰の強さが要求される仕事や、道路標識の埋設(つまり穴掘り)、寿司屋の配達、以前紹介したデパートの配達など体を動かすのが好きだった。


★Photoはイメージです。

本業がディスクワークに変わり、体力が急激に落ちていった。ある時(数十年前のこと)、娘が風邪を引いた。本業へ独立して、やっと軌道に乗ってきたときのことだ。徹夜を3日した後に子供の異変を聞いた私は早速市立病院へ連れてゆく、流行っていたのだろう半日以上待たされて診察してもらい、帰って来たときには疲れ果てていた。その結果今度は私が風邪を貰ってしまった。39度の発熱と下痢。
それでも一週間様子を見たのがいけなかった。今度は私が病院へ。結果風邪のウィルスによる腸炎と判明。入院二週間、その間絶食・絶対安静の宣告を受けた。療養生活一ヶ月。退院した時は身長は変わらないが、体重が60kgと見た目ガリガリになった。それ以後の私はタバコをやめ、酒も減らし健康に戻った…と、軽運送と何の関係があるのか?

さて、本題だが1回の入院生活はしたが、それ以外すこぶる健全な生活を送っていた私が軽運送で前回まで述べてきたように、環境が一変。それを機に不規則な食事・極端な寝不足・とどめがストレスで心身の不調が現れてきた。
不規則な食事とストレスは不思議なことに太るのだ!深夜の呼び出し、待機、そのままの運転、車の中での就寝。無理のし放題だ。その内、体がガタガタになってくる。だからと言って収入が少ないのだ、休むわけには行かない。しかし荷物の積み下ろし以外、体は動かない。いや、動けない運転姿勢。良いわけが無い。最初はめまいから始まった。安全確認のために左右に頭を振る…と急激に景色が傾いた。それは数週間続いた。軽運送に携わってから3年半くらいのときだ。正確な時期は覚えていない。目が回れば当然、次に吐き気が襲ってくる。息切れに動悸。それでも私は頑張った。自分なりには。

[こんなことがあった、その19]
忘れもしない。東北自動車道路を北に向かって走っていた。直線の快適な道&景色。私の体調も不安なしだった。前の晩の仕事で荷物の積み置きが深夜になったことも忘れて。と、直線道路のはずが捩れて来た。いや、そう見えてきたのだ。その内、胸苦しさ…息が苦しい。
不思議なことに私はどんなに具合が悪くても車の運転だけは出来てしまう。好きとか向いていると言うより、不調を忘れてしまうのだろう。何とかアクセルを踏むが胸が重く痛くなってきた。こんな状態になったことのある人は経験があるだろうが「トイレ」に行きたくなるのだ。そして脂汗。
仕方が無い。配達時間は迫っているが、サービスエリアによることにする。「トイレ」に行っても出るわけではない。焦燥感でじっとしていられない。「これは普通じゃあない」=「死ぬかもしれない」と思った。その時は。結局死ななかったし、何とか目的地に着いて荷を下ろして帰路に。少し症状は落ち着いてきたが脱力感は相変わらず。帰りはサービスエリアを見つけては休みながらの運転だ。

その日を境に私の体調は現在まで変わらない。当然、翌日病院へ。しかし、原因が分からない。MRI・レントゲンは勿論、心電図、血液と尿検査などなど一通りの検査を受けるが、その医者に正確な病状は発見できないかった。病名はストレスによる自律神経失調症。あいまいな病気だ。夜中にこの症状が出て救急車を2度呼んだこともある。
これが原因でカミさんは運転免許を取った。救急車と言うのは病院まで送ってはくれるが、帰りまでは面倒を見てくれない。深夜、病院内の公衆電話でタクシーを呼んで待つ時の不安を覚えたからだ。
自家用車なら電話をして予約すれば救命救急病院へ入れる。それほどはたから見ても酷い状況だった。この症状が出ると私は「死」を覚悟するようになった。「そんな大袈裟な」と諸兄は思うかもしれないが。

早朝から深夜まで、仕事が出るかどうかも分からない、段々少なくなる収入と度々変わる環境。無理難題の要求をする運輸会社の不条理。「生活はどうしよう」…と言うようなことを毎日考えていた結果のストレス過多であったと思う。相変わらず不調は続いた。

仕方が無いので病院を変えた。前の病院は待ち時間が長く、診察は数分。誠意が無いと思えてしまう医者に業を煮やしたのだ。現在も通院している小さな医院だが熱心な医者は「一日着装する心電図を試して見ましょう」と言った。24時間その装置をつけているだけで気分が落ち込むが、原因が分かればと我慢した。寝るときもつけているのだ。そして、私は仕事をその為に2日間休んだ。仕事で体の変化が大きくなると正確に測れないと思ったからだ。つまり日ごろの「普通の生活」にしたのだ。
結果、不整脈が出た。少しなら異常ではないが思ったより多かったらしい。そして血圧に異変があった。症状が出ると最低血圧が120mmHg(最高血圧ではないくれぐれも…)、脈拍も120。これはもう心房細動に近いという。

薬も降圧剤・強心剤・抗不安剤のほかに循環器系の2種類。薬漬けである。しかし、仕事を続けていく以上この症状を隠さなければならない。そう、逆にこの仕事をしていたら治らないのである。強度のストレスがある限り。
私は気が小さいのである。しかし、悪いことに人一倍正義感が強い。長所であり、短所だ。納得しない所業は許さない。黙っていれば通り過ぎることでも、「それは違う」と言ってしまうのだ。要領が悪い。だから結構衝突する。会員とではない。運輸会社の社員や例の所長とだ(分からない方は前回の顛末記をどうぞ)。相手にとっては扱いにくい奴だろう。なので仕事は減ってゆくわけだ。当然かもしれない。もしかしたら自分でストレスの原因を作っているのかも。


★Photoはイメージです。

[こんなことがあった、その20]
たわいの無いこと。単に私の精神力が弱いだけだ。発症してから半年くらい経った頃には私は軽い「うつ」になっていたのだと思う。何回目かの箱根、今回は登山鉄道の駅に配達。きついカーブの折り返しに、軽いフラツキを覚えながらそれでも薬が効いているのだろう。それ以上の不具合は出ていない。が、下り坂は神経を使う。のぼりより技術的に難しいのは皆さんの知るところだろう。
日暮が近い。少し疲れてきた。私は東名高速を使って帰ることにした。普通なら国道一号線を使ってエツチラ、オッチラ、ノンビリ行くのだが、その日は料金を使っても楽をしたかった。「多分これで今日の収入はなくなるだろう」と寂しい気分になってきた。
それがキッカケになったのだろうか…悲しくも無いのに涙が出てきて止まらなくなった。「私は何でこんなところでこんな事をしているんだろう」「家族にも楽をさせてやれない仕事、なんて無駄なことをしているのか」「生きている資格があるのだろうか」。周りには大型のトラックが流れに沿って走っている。『いっそのこと…』と思った瞬間、前のトラックのブレーキランプが光った。このままアクセルを踏み続ければ楽になれる。
ふっと悪魔の囁きが聞こえた。私の心の中の。瞬間、目をつむった気がした。
しかし、人間なんてそんなに簡単に死ねるものではない。動物的防衛本能なのか、自分が弱いのか、いつもより大分遅れて私は急ブレーキを踏んだ。もう少しだった…暫くその場に車を停めたままだった。渋滞気味だったが高速道路上は少しずつ流れていた。停まっているのは私だけだった。後ろから警笛が鳴った。前の景色がにじんでいる。その後もそんな考えがよぎることが何回かあった。怖くは無かったが自損事故以外、相手に迷惑をかけるなんて理性が働く自分が情けなかった。
正常に考えればそれでよいのだが、その時は正常では無かったのだ。

今までの「顛末記」は経緯やテクニック、出来事を書き綴ってきたが、今回は私の精神的、身体的状況がここまで追い詰められてしまった。と言うことを伝えたかった。恥を忍んで。
最初の募集広告を見てから4年の歳月が経っていた。月収70万どころか10万も収入はなかった。人間は金がなくなると心まで変わるのかもしれない。私の前から消えていった会員の仲間達もまた、こんな気持ちになって去ったのだと思う。世の中にはもっと苦労している人、苦境に立っている人が多くいるに違いない。

しかし、あえて書き記す。私自身が甘いのかもしれないが「軽」だけではなく、この業界は甘くは無い。少なくても弱い人間は命を落とすこともあると承知することだ。どんな仕事でも命がけではある。金を得ることの大変さは分かるが、運送業はまた別だ。何しろ動く凶器に乗っているのだから。

現在、冷静に考えれば自分で命を絶つことの愚かさは反省すべきである。万が一には苦しい時があるかもしれないが、強く生きていくことを諸兄にはお勧めする。

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