SSブログ

「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-14 [思い出]

私の記憶の中で5才までに特に思い出に残った事を記してみたい。子供の頃のしかも幼い時はやはり食べ物と乗り物だろう。

楽しみといえば、テレビはまだ無いのでラジオである。と言っても殆どは大人物が多い。当時の午前中に「パパ行ってらっしゃい」と言うラジオ番組があった。中村メイコと言う女優? が一人で何役も声を変えてドラマ仕立ての、それでもそれほど長い時間の放送ではないが、その面白さに毎日楽しみにしていたものだ。
あとは幼稚園に行っていないのだ文字が読めないので漫画とか、童話の本は持っていない。そんな子供が外での遊び以外には、美味しい食べ物が記憶に残る。

かと言って毎日の普段の食事には特に覚えが無い。飽食の時代ではないからだ。今、食べれば珍しいとか懐かしいなんて思うのだが、当時としては粗食の部類に入る。ハンバーグ・カレーライスはおばあちゃんのレパートリーには無かった。煮付けとか、茹でた野菜に醤油をかけるだけである。ケチャップ・マヨネーズ・ソースもウチの食卓には乗らない「ハイカラ」は好まない家族だ。

夏のアイスキャンデーは格別だった。覚えがあると思う、あのサッカリンやチクロと言う、今では使用中止になった甘味料・添加物入りの何と美味しかったことか。今の糖類とは一味違う、今では例える物が無い味なのだ。
テレビの料理番組もそうなのだが、ここでどんな説明をしても画面や紙面では伝えきれない。経験したものだけが分かる味だ。
飲み物ではラムネもあった。今のとは違うと思う。やはりそれなりの添加物は入っていたのだろう。売っている店にも冷蔵庫が無かったり、あってもそれには入れていない。大体がバケツに水を流して冷やすのだ。瓶は返すのだからその場で飲み干すことが多い。親でも付いてくれば信用で持ち帰りも出来るが、瓶代が加算される。トコロテンもあったが、あれは大人の食べ物だ。
子供の食べ物はあと数年たって、私が駄菓子やへ通うようにならなければ普通の食料品店で買うのはそんなものだ。

そのほかとしては果物? に尽きる。井戸に冷やしたスイカ、丁度適温になるので冷蔵庫などのように冷えすぎが無い。これが甘さを一番感じる。トマトも同じである。大きなバケツ一杯100円くらいでリヤカーを引っ張る八百屋から買うが、おまけが倍くらい付いてくる。いくら食べても減らないが、いくら食べても美味しいし、体にも良い食べ物だ。

地元はアサリやハマグリ、海苔の産地でもあった。現在は「青柳}などと飲み屋で酒の肴や料亭のメニューにもあるが、当時バカ貝といわれて捨てていたもの。食べたことが無かった。殆どがハマグリだ。自転車で数十分も走ると潮干狩りができる遠浅の海岸だ(勿論、私はおじいちゃんの自転車の荷台だ)。海の家が数キロも立ち並ぶが、地元の人間は秘密の階段から降りてその日のおかずを取る。潮汁か焼きハマだ。今のようにレパートリーはそれほど無い。それでも現在よりも美味しい…水が綺麗だったせいか。粗食でありながら、山の幸も海の幸も新鮮でウマかった。

昭和31年、年末もあと数日で新しい年になろうとする冬のある日、隣の中村牧場の「大きい方のあんちゃん」が隣の市の放牧場に仕事に行くので。乗せて行ってやると言うのだ。バス以外、オートバイしか乗ったことの無かった私は「車に乗れる」と飛び上がった。
「家の人に聞いて来い」と言うので小走りに我が家に戻りおばあちゃんに懇願した。機嫌の良い時はこの人も優しいのである。OKが出て野球帽をかぶって早速隣の牛屋へ。と、庭に出してきた車…はセダンでもなければ普通のトラックでもない。

オート三輪と言うクルマをご存知だろうか。「ああマツダの三輪の」と想像するのはチャントした街を走っていたタイプだろう。
私の目の前にあるのは何とも危なっかしい代物だった。第一にドアが無いのだ。両方とも。あの憧れのハンドルが無い。いや、あるにはあるがオートバイのような左右に延びている、それでいてそれより大きくて不細工な…。もっと怖いのはキックがあって正にオートバイ形式。それがあると言うことは下まで踏み込むので床が無いのだ。地面が見える。運転手は真ん中に座る。助手席といえば簡単で小さな椅子が付いている。大人なら足を伸ばすとステップが付いていたが、子供では届かない。宙ぶらりんのままで、しかもシートベルトなどあるはずも無い。

未舗装道路をトラックタイプのそれは乗り心地も非常に悪い。上下左右に体が浮く。体重が軽すぎるのだ。もし、大きくバウンドすれば、私は床の無い隙間から地面へと落ちてしまう。しかも走っているこの車の下敷きになる。それは恐怖の行きかえりだった。
前など見ていられない。四六時中地面を見ている。ドアも無いので振り落とされないように、横のフレームにつかまる。助手用の取っ手に捕まろうとするが、手に汗をかいていてツルツルと滑るのだ。元来一人乗りが主だ。

だったら荷台に乗ればよいと言うことも考えたが(当時は荷台に乗っていても警察から咎められることは無かった)、後ろには牛のフンが積まれている。とても乗れたものではない。
私の最初の車体験は悪夢と終わった。その夜は精神的に疲れて、死んだように眠った覚えがある。

もうすぐ、5才も過ぎ誕生日を迎えるがそれのエピソードは別に無い。感激の無い貧乏人の日々の続きだ。そうして年は過ぎてゆく。
年末の大掃除には我が家はボロ屋の割りに忙しく、私もこの歳で障子の張替えを覚えさせられた。外で水に濡らし古い紙を破る。この時が一番楽しい。背が低いので下半分、フノリを煮て刷毛で棧に塗っていく、新しい障子紙を貼ったらカミソリで端を綺麗に切る。6才になって初めて経験する仕事だ。黒川家の親は将来のためと思ったのだろうが、現在の我が家には障子は無い。


●こちらもどうぞ--------------------------------------
少し以前の失敗談 tom room:「悲しき軽運送屋の顛末記」


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。