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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-15 [思い出]

私が幼い頃は、とにかく歩くことが多かった。今の子供のように一家に一台の自家用車があれば、どこへ行くにも歩かないことがままある。幼稚園や保育園はお母さんの送迎の車で溢れている。

話が前後するが4才の頃に私は黒川のおばあちゃんの友達で、村に在住していた「ヤクルトおばさん」と仲が良かった。いや、可愛がってくれていたのだ。(以前ヤクルトの配達は専属ではなく、一般の主婦が委託をされていた、決してお姉さんではなくおばさんである)朝9時、家の掃除が終わる頃になると毎日やってくる。名前は今となっては忘れてしまった。「シュウちゃん、いくよ」と言うのが第一声である。

暫く井戸端会議をしたあと、私を連れてその飲み物を配って回るのだ。その距離たるや並ではない。約2時間。たっぷり、しかしノンビリと主に試験場の中に点在している官舎がお得意さんだ。手をつなぎおばさんは片方に布袋に詰めたヤクルトを持って、二人で歌を唄って歩く。

曲名は「おーい船方さん」だ。といっても、ご存知の方は少ないかもしれない。確か、「三波春夫」だったと思う。これを全曲、繰り返して唄う。彼女は私にこの曲を覚えさせようとしたのだろう。最初は少しずつ、一番を唄えるようになると暫くは繰り返し。それが完璧になると次を…なんて毎日。 その当時は「三橋美智也」「春日八郎」などの歌手が活躍していたと思う。 今のようなJ-POPなんてハイカラなものは無い。浪花節から発生した、演歌とも少し違う歌とか、声楽・クラシックなどから出てきた「東海林太郎」、少し今風な「神戸一郎」「島倉千代子」「美空ひばり」などの流行歌手が唄っていた。 曲名までは…興味のある方は検索で調べて欲しい。私の歳では興味の無い事柄である。 とにかく4才でこの「おーい船方さん」だけは通して歌えた。今でも一番だけは完璧だ。

黒川のみきばあさんは、自宅で舞踊教室を開いていた。この人、専業主婦で昼間はやることがない。なので村の女性を集めては踊りを教えたり、知らないと教わったりのサークル活動である。先生がいる訳ではない。和気藹々のグループだ。勿論、前出のヤクルトおばさんもこの仲間である。私には皆、ラジオ体操をやっているようにしか見えなかったが。 その活動で私は「レコード係」を仰せつかった。 当時のレコードは硬く、落とすと割れてしまうこともあった少し前のアルバムレコードの大きさくらいあり、それに一曲しか入っていない。SP盤と言われているものだ。取り扱いに気を使う。そのパッケージには歌手の顔は印刷されていない。ただ曲名が記されているだけだ。大体、今のCDのように箱型の硬いものではなく、安っぽい袋の真ん中に直径5cmくらいの穴が開いている代物だ。だから歌手の名前と顔は一致しない。この「レコード係」が小学校に上がって、私の人生を狂わせることになる。それは後日。

プレーヤーと言えば格好が良いが、蓄音機になる。スピーカと言えるのだろうか、ラッパの先のような増幅管が大きな口を開いている、某レコード会社のマークで犬が聞いているあれである。駆動はモーターではなく、おそらくゼンマイなのだろ。私が手でレバーを回す。子供のことである、他に気をとられていると回転が遅くなって、踊りのリズムが乱れる。「シュウ、何をしてるの、チャントみてなさい!」と窘められる。 針は鉄製の物を一曲ずつ取り替えなければならない、えらく面倒な機械である。 そんな中でおとなの歌を結構覚えた。何度も繰り返されるからである。正確ではない。鼻歌のように口ずさんでいたのだ。子供の童謡と言うやつは一曲も歌えなかった。勿論、子守唄は唄ってもらったことは無い。おばあちゃんは自分で認めるくらいの音痴だった。

もう一つのエピソードは明子おねえちゃんと街へ出たときのことである。 こんなことは珍しかった。その当時20才位だった彼女は周りの目を気にして「預かりっ子」の私と一緒に行動するということは恥ずかしい? からだ。 なので、一緒に歩く時も少し距離を置いて、「私とこの子は関係ないのよ」みたいな訴えがありありとわかってしまう。店に入っても私は離れて待っている。そんなある日、多分おばあちゃんに「やんごとなき用事」が出来たのだろう。出かけると言うおねえちゃんが、私を連れて行くことになった。 街までは私の好きなバスで行く。デパートに行くためだ。中に入っても相変わらず売り場のこちらのカドで私は待つ。彼女は彼方で買う物を物色している。と、誰かと話し始めた。多分友達と偶然会ったのだろう。これが長い…何時まで待っていても終わらない。 私は痺れを切らしてしまった。だからと言って友達と話している彼女に近づいて「早くぅ」なんていったらどんな罵声を浴びせられるか解らない。

仕方が無いので「自分ひとりで帰る」ことにした。それも断りも無く。 私はお金を持たされていない。バスで来たのは出してもらったが、黙って帰るにはひたすら歩くしかないのだ。 しかし、脚力は毎朝のヤクルト配りで自信がある。4才の子供が数十キロ離れた街中から田舎まで歩いてしまったのだ。3時間くらいかかっただろうか。家には誰もいない。ぽつんと玄関の前で立って待っている。庭に回っては葉っぱをちぎってみたり、それでもおねえちゃんの話が終わるのを待っているよりはマシだった。

彼女(明子)の方は大騒ぎである。私かいなくなった。迷子になったのか、誰かに連れて行かれたか…当時は「人攫い」と言われる営利目的ではなく、労働力として子供を誘拐する犯罪者もいた。 怒られると「人攫いに連れて行ってもらいますよ」と言う切り札を言う親もいた。

いくら邪魔な子供とはいえ、自分が連れて歩いて消えてしまったのだから彼女は真っ青だ。気付いてそこいら中を探し回ったようだ。「警察にも」と思ったらしいが、一応親の指示をと家に帰って来た。 おばあちゃんと言えば用事を済ませて帰ってきたら、私が一人でいる。最初は不思議な顔をしていたが、訳を話したら笑いながら「よく一人で帰ってこられたねぇ」と感心しきりだ。この人こういう武勇伝的な行動は大好きなのだ。実にあっけらかんとしている。自分がやられたら怒るくせに!

明子ねえちゃんが泣きべそをかきながら帰って来たのはその日の夕方だった。私が居たのを確認した途端、本格的に泣き出した。私は何かスッキリしたそして、ここまで帰ってこられた土地勘を自慢したい気持ちになっていた。とにかく、よく歩いた。

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少し以前の失敗談 tom room:「悲しき軽運送屋の顛末記」


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