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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-17 [思い出]

冬は正月以外、特別楽しいものは無い。大晦日の大掃除と正月用の食べ物作り、私と言えば当然忙しく手伝わされる。当たり前なのだが他の子供たちが外で遊んでいる姿を羨ましく見ていたのは、妬みか。テレビはいまだ無いのでラジオの紅白歌合戦を聞いてそのまま就寝する。黒川家で初詣に深夜から出かける人はいない。いよいよ元日になる。朝のお屠蘇での挨拶だけでいつもの日々だ。夫婦もおねえちゃんも酒は飲まない。かと言って元旦は外へ出てはいけない(他所の家を訪れない)慣わしだ。
凧揚げの場所は限りなくあったが、飛ばす凧が無かった。近くに駄菓子屋が無いからだ。街に買出しに行っても買ってはくれない。と言うか、兄のような遊びを教えてくれる相手がいないし、おじいちゃんはそういうものに関心が無かった。だから私自身が欲しいと思うだけの知識がなかったのだろう。

2日目になると正月としての行事が俄然忙しくなる。再三書いているように、おばあちゃんの社交好きに起因して年始の挨拶に訪れる人が後を絶たない。
そのときばかりは私も天国だ。何しろ訪問者がいると彼女は見栄をはる。洋服といわず、下着まで全てこの日のために年末に買ってくるのだ。新品の衣類でお客を迎えるのだ。この日に着た洋服がこれから一年間「よそいき」になる。つまり、出かけるとき一張羅の服である。
もちろん来る人はお年玉もくれる。人数が並大抵ではないのだ。その分、金額も子供にしては多くなる。喜びの一瞬である。いや、一時の喜びか…
どこの親も一緒ではあろうが、「子供がそんなに大きなお金を持っていてはいけない」と言う理由で「預かる」形の取り上げである。
もっと直接的には「私の付き合いがあればこそのお年玉だ」といわれる、「身支度も金がかかっている」のだと。確かにそうだが子供としては納得が行かない。その金が将来戻って来たことは無い。もっともこの頃は使う場所も無かったので素直である。抵抗し始めるのは小学校に入ってからになるのだ。

イベントが終わると冬の寒さにひたすら我慢の日々が続く。その頃の黒川家は隙間だらけの家屋である。朝日が雨戸の合わせ目から、そして木目の節穴から差し込んで、その光で目が覚める。寒い冬の朝だ。私は布団の温もりに何回も寝返りを打って眠りの余韻を楽しむ。

ドテラをご存知だろうか。寝具の一つだ。今でも通販などで販売しているテレビを見たことがある。
それは温かく首までスッポリと包まれる、肩に隙間が出来ない。それでいて変な形をしたものであった。第一、掛け布団に両腕を出すところがあるなんて…もちろん、その昔それを羽織って歩く日本画を見たことはあるが、いくら何でも昭和30年代にはそんな奴はいない。袖があってもそこに手を通しては眠らない。何のためだろう。

その時代は寝具は自分の家で作ったのだ。古い布団の綿(わた)を「打ち返し」(ドライクリーニングに似ていて、綿屋に頼む)に出して綺麗に、新しい綿を足してフックラとしてもらい、それまで溜め込んできた生地を縫い合わせてゆく。綿を広げて袋状に四角く作っていくのである。私はその手伝いをさせられる。それは仕上げの時だ。
綿が中で偏らないように、布団になる四隅に綿が行き渡るように二人が両端を持って揺すったり、ならしていく作業である。「シュウ持て」といわれて幼い力で一生懸命に出来たばかりの布団の側をもって動かす。それは大体冬が近づいて、少し寒くなってきた頃に行われる恒例行事だ。

着物の張替えと言うのもあった。少し古くなった着物を解く。数枚の布切れにするのだ。それを洗い糊をつける。細長い平らな板に貼り付けて乾かす。「洗い張り」といわれた。今は着物も着る人が少ないので、まして自分で作り直すなんて事をすることが無くなった。その布をまた新しい着物として縫っていく「仕立て直し」も自分たちでする。

貧乏だったからだろうか、それともその当時は皆そのようなことをしていたのだろうか…

「三丁目の夕日」と言う映画のDVDを観て思ったことがあった。「湯たんぽ」である。そのシーンでは真新しい綺麗なそれに、お湯を入れていた。東京では常識なのか、それとも我が家のやり方が違ったのか。
ウチの湯たんぽは裏が焦げたように茶褐色でススがついていた。もちろんそのまま足に当てるわけではない。袋を作ってそれを入れるが、その前に「湯たんぽ」を直火にかけるのだ。そう、昨日使ったままの冷たい水の入ったものを。栓をあけて沸騰させる。火から降ろしたら火箸などを使って、その栓を締めるのである。なので何時も日に炙られた汚い湯たんぽなのだ。蒸発した水を足すくらいで、一冬中の水を換えることは無い。
現代のホームセンターで売っているポリ容器のような火に掛けられないものではなく、金属製である(陶器製もあったと思う)。昼間からコトコト?と火鉢に乗せておくこともあった。炭火なので直ぐには沸かないが、節約の知恵だ。

冬の暖房といえばこの火鉢と初期は囲炉裏、そのうち掘り炬燵になった。今のような家具調の和室の平べったい上に置くタイプの炬燵ではない。部屋の真ん中に四角く、大きなものだと一畳くらいの穴で、床より高さ60cmほどに低くしてある。周りはコンクリートや木製である。コンクリート(我が家はこのタイプ)では足を置くところに板を敷く。
真ん中に炭を熾してくべるのだ。その中で眠るのが私は好きであった(もちろん、火に触れないように金属製のガードは被せてあった)。唯一そのときだけは、おじいちゃんに抱かれて寝床に運ばれる。意識が遠のく中で幸せを感じていた。炭を多く使用していたが、二酸化炭素中毒になるような密閉性の高い家ではない、たまに頭が痛くなる程度だ。

「火鉢は四季の中で秋・冬・春とその大半使用していた。黒川家はお茶が大好きなのだ。始終、鉄瓶で湯を沸かしている。そのための火鉢なのだ。もちろん、餅も焼くがこれが一番具合が良い。炭さえあれば一日中何かが五徳の上に乗っていた。煮物も、芋を焼くにも… 夜中にも火を消すことは無い。「それでは危ない」と言われるかもしれないが、これが便利なところ。灰を被せるのだ(灰は炭か燃え尽きると溜っていく)。するとほこった(多分、方言だろう他所では「熾った」である、全体に火が行き渡ったの意)炭は朝まで消えない。灰を広げて、そこへまた新しい炭を加えれば改めて火を熾す必要はないのだ。便利ではあったが、本格的な暖房には適さない。関東大震災級の地震があれば即、火事に発展する。
時代から次第に取り残されてしまった代物である。私はこの風情が好きではあるが、残念ながら現在は我が家の火鉢も物置に埋もれている。

余談だが、夏の掘り炬燵は厚い板でフタをして、その上を井草の敷物で隠すのである。

●こちらもどうぞ--------------------------------------
少し以前の失敗談 tom room:「悲しき軽運送屋の顛末記」


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