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悲しき軽運送屋の顛末記-22 [顛末記]

このブログを初めて20回を超えた。そうして、ハタッと気が付いた。読んでいただいている人が向こう側にいると。
最初は自分のストレス解消のつもりで始めたのだが、総閲覧数で1,200以上に(ブログのアクセス数にしては少ないのだろうが)。重複している方もいるだろうし、自分でゲストから入った場合もあるだろうから三分の一と考えても400人の方々に見ていただいている。単体の閲覧数でも平均40はある。有難いことだ。こんなに読みにくいものを…
そう考えると、こんなんでよいのだろうか。とか、もっと話を膨らませて面白いことを書こうかとも思ってしまう。今までの話は真実以外ないし(多少の年月の思い違いとかはあるが)、皆さんを楽しませることが出来る文章は私には書けない。思いのたけをぶっつけているだけである。読み返せば同じことの繰り返しだ。
昨日「カミさん」が初めて私のこれを読んでいた。途中で「余りにも嫌な思い出だよ」それから暫く俯いて「せつないね」とポツリ。その後のため息…

総括で書くつもりだったが、始めの頃の顛末記で[東京まで行けば一万二千くらいにはなる]と書いた。そうしてその5割が純利益、つまり生活費になると。それが25日続けば十五万。「何とかやっていけるじゃあない」と諸兄は思うだろう。毎日続けばである。自分の車(設備)を使って半月も仕事があればマシな仕事。これでは食べていけない。結局カミさんがパートに出て助けてくれることになる。それまでの悠々な生活から一転したのである。
昨今の新聞には「景気、バブルを抜く回復」とある(一番の成長率はその昔のいざなぎ景気だそうだ)。「どこが?」と聞きたくなるほど今も生活の困窮は続いているのに。そうして私の「愚痴」は続くのだ。

空港の仕事が終わってから一週間はスポットの仕事が無かった。毎日D社には顔を出していたのだか。いい加減、私の顔を見るのが辛くなっのか翌週に連絡が入った。E運輸会社に行ってくれ、と。また仕事が出来ると思った。
翌日から朝、6:30にE社に着くようにした。空港と同じ時刻に。そこはもう、動いていた。社員への挨拶もそこそこに仕分けを手伝う。そこにはD社の会員が5人常駐していた。私は6番目である。皆が手伝っている。それをしてから仕事を貰うのだ。
一仕事終わって会員が集まって私を囲む、皆さんにご挨拶。70代が一人・60代が二人。その中の一人は、私が研修中(以前の顛末記にて)ポスティングでボス的存在だった人物だ。その後このE社に直行、従事していたらしい。あとは50代、…ってその顔ぶれを見ると、ここは窓際族の集まりだと分かる。空港で肩叩きを受け、姥(爺)捨て山に連れてこられた感じだ。

70代のその人は赤銅色の顔に筋肉の付いた腕、それだけでこの仕事に永く携わってきたと分かる。60代も同じ様子である。この三人は年金も貰っているのであろう。余裕がある。
そうして一番の問題は、またまた順番だ。皆同じ条件だから古くからの人間が優先的になる。順番と言うより良い条件の仕事、金になる仕事は古株が放さないのだ。私は当然新人に戻ってしまう。空港での履歴などは関係ない。場所は地元へと変わったが、また待機の日々が始まる予感がする。条件としては空港よりまだ悪い。空輸されてくる荷物がどんどん出てくるわけではないのだ。朝、大型トラックで来た荷物以外はよほどの緊急でなければ連絡など来ない。勿論、荷物もである。

唯一の救いは「先輩」達が優先的に遠方へ行っている間、他の一般会社依頼のスポットが数日に一つくらい入ってくる。それが私の命の綱だ。
面白いのは特に一般会社の場合、それなりの理由はあるだろうが極端な話、マッチ箱一つでも、荷室に目一杯積むような重量オーバーで大きな荷物でも料金は走行距離で決まるので同じ。
楽な時もあれば運転に神経を使い、積み下ろしに汗することもある。


★Photoはイメージです。
[こんなことがあった、その14]
その一般会社(運送会社ではないの意)からのスポットが入った。物はビル建設のための鉄骨のつなぎ部品である。
指定時間に行くと「チョット待っていてくれ」と忙しい工場内。今、まさに造っているのだ。真っ赤な火花が飛び散る中でハンマーを叩いている。「えっ、これを運ぶのか?」と心の中で…まだ鉄が焼けているのだ。車と言うのはガソリンタンクが荷室の下にある。鉄板一枚で。敷いてあるゴムマットだって解けそうだ。仕方ないのでダンボールを貰って何十にも重ねる。彼らは鉄の色が変わると「冷えている」と言った。そんなはずは無い。手では持てないのだから。ダンボールに載せればそこから焦げて紙の色が変わっていく。温度が下がったか云々ではないのだ、兎に角自分たちが遅れた作業を私に取り返して欲しい、つまり早く積んで出発して欲しいだけなのだ。これにはビビッた。後ろから焦げた臭いがするのだ。何時、ガソリンタンクが爆発するか分からない。それも荷室一面に重ね積みして半分くらいの高さまで積み上げている。窓を閉めていると汗が出てくる。後ろドアのウィンドウまで全開にして風を入れる努力をしながら走るが、物が鉄骨である。その量だけで700kgはある。ハンドルが振られて、そんなにスピードは出せない。
普通は温度がどんどん下がるはずなのだが、いくつもを積み上げてあるため余熱で返って上がっている気がする。少なくても室内の温度は。そのうち首都高の渋滞につかまる。走行風がなくなるにつれ、頭の後ろが暑い。いや、熱い!

車の事故で命を落とすのは、自分の責任なので諦め? もつくがこんなことで死にたくは無い。熱いはずの汗が冷や汗(私はよくこの手の汗をかく人なのだ)になっていく。今ここでブログを書いているということは、何とか東京のそこへ無事に到着し、火傷をしながら荷卸をしたのだか、軽運送の業者は相手を・積荷を選べないということだ。そこで嫌だからごめんなさい、ではプロの飯は食えない。


★Photoはイメージです。
[こんなことがあった、その15]
上記と同じようなことで、今度は食品会社に行った時のことである。年末の寒い日であった。その倉庫から荷物は出た。大きな一つの冷蔵庫が建物になっている。丁度空港の乗客が乗降するタラップの蛇腹のようなものにシャッターがついていてなるべく冷気を外へ出さないようになっている、何が出てくるか分からない。積荷が。私は嫌な予感がした。冷凍食品であるのは間違いない。とりあえず用意して来たビニールシートを敷いた。以前空港から船宿に「ゴカイ(魚のえさ)」を運んだことがあった。その時の経験からシートを用意するようになった。

私の勘は当たった。荷物は正月の必需品、「数の子」である。それも相当多い量だ。下に敷いたビニールくらいでは収まらない。冷凍食品を普通の車で運ぶと、解けて水が出てくる荷室一面が水浸し、しかも今回のは塩水なのだ。ま、後で水で洗えば、とその時は思った。
エンジンを掛け出る時になってチョット気になった。寒い日なので当然ヒーターをかける。するとさらにオカシイ。以前も書いたがエンジンが荷室の後ろにあるので床も段々温まる。冷凍食品に良いことは無い。そのうち強烈な臭いが立ち込めてきた。神奈川県の横須賀までの間のことである。この臭いに我慢が出来ない。が、積んでしまったものを今更どうしようもない。この時寒い中、窓を全開にし、届け先に一刻も早く着きたかった。
結局、私の車の中はその後一週間、いくら掃除しても臭いが消えず窓を開け放して走ったのだ。

「14」では熱で、「15」では臭いが原因で十数年経っても忘れられない思い出になっている。特に数の子の場合仕事だからそのくらいはではあるが、スーパーマーケットで買う一つや二つの量ではない。臭いがその数だけ倍加するとはこの時まで思わなかった。まずは1Boxの車をチャーターすること自体が間違いなのではないだろうか。幌型トラックならこんな悲劇はない。運送業はそんなもの、と思ったらそれは違う。会社組織の運送会社は大体が専属になる。その為の、それ用の車を用意する。そうしていつも同じ車が同じルートを運ぶのが通例。軽運送ならではの大雑把な配車である。

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