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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-4 [思い出]

その頃の私は一人遊びをするのが日常だった。友達が、特に同世代の男の子が近くにいなかったせいもあり、4歳の子供が遠くに遊びに行くわけにもいかないからだ。
おじいちゃんが大学の設備品を入れてあったダンボールを持ってきてくれる。それを連ねて並べると電車かバスになる。一番前に入れば運転手である。後ろなら車掌。間には誰もいない。想像の世界に入り込むのだ。このおかげで今、クリエイティブな仕事が出来ているのかもしれない。

ある日、突然に何故か木を切りたくなった。ノコギリを借りて、畑にある直径約20cm、高さは子供の頃の何倍もあった様に思う。毎日シコシコと数センチずつ…まるで大人になったような気がした。道具を使って何かをするということにだ。2週間くらいだろうか。いや、もっとかかったと思う。途中挫折しそうになりながらだったから。それでも何とか切り倒した。
書きながら思い出した。そうだ、風呂を炊く薪を作っておじいちゃんを喜ばせようとしたのだ。薪は乾かなければ燃えにくい。だからとそのまま放っておいたら、いつの間にか薪になっていた。おじいちゃんが作ったようだ。子供のやることを温かく見守って、やりきれなくなると黙って始末してくれる。私にとっては一人遊びの一環なのだ。

  

春になった。昭和30年、相変わらず私は4歳だ。大人になると短い時間も、子供の頃の流れは長いものだ。目の前に黄色い花が一面に咲いている。ここは私の遊び場であり、天国である。
畜産試験場の牧草地が敷地全体の50%を占めている。家畜の放牧と餌の確保のために季節ごとにいろいろなものを植える。春は菜の花かクローバーだ。菜の花は刈り取ってクローバーは直接、牛や馬などを放して食べさせる。

東京ドームの屋根を2枚連ねたようなスペース一杯に曲線を描いて遠いところまで広がっている。そこに、私の肩くらいまで育った菜の花。晴れた日にはそこへ踏み込む。なぎ倒しながら。少し暖かくなってきた太陽の光が眩しい。真ん中まで来た私は、ジャンプする、そのまま仰向けに落ちるのだ。バサッと。目の前は青い空、周りにはライトグリーンの茎とその上に花の黄色が揺れている。誰からも見えなくなる。私だけの世界だ。心地よい風と眩しさに目を瞑ると、そのままウツラウツラしてしまう。
本当の天国は知らないが、そこが私にとって幸せな世界だ。
ちなみに夏はトウモロコシ。人間が食べられる品質ではない、家畜用だ。私の背丈の2倍くらいに育っているそれが整然と植えられた間を小走りに通り抜けていくのは楽しい。中に入れば入るほど誰からも見えなくなって一人になれる。

何故、逃避が好きだったのだろう。
前話でおばあちゃんは気性が激しいと書いた。正に内面は厳しい人だ。私はにもそれは変わらなかった。おそらく預かった子供なので世の中に出しても恥ずかしくない教育をしようとしたのだろう。3歳までは要求しなかったが、4歳から私の生活は一変した。仕事に就かされたのだ。と言っても子供のやることだ。
今の子供ならまずやらせない事だが…朝、起きると雨戸を開ける。次に親(以後育ての親を単に親と言う)の布団と自分の布団をたたむ。押入れにはまだ力がないのでかたせない。部屋の隅に重ねるだけである。朝飯はない。別に食べさせてくれないのではなく、その頃のおばあちゃんは少し体調を壊していて、食欲が無いと作らないのだ。おじいちゃんは自分だけ食べて仕事に出かけてしまう。結局、私は今の歳まで朝食の慣習はない。

布団が片されると、ハタキを持ち出して家中を叩いて回る。勿論、私がである。その後茶殻か、新聞紙のぬらしたものを千切って撒いて歩く。埃が立つのを防止するのと畳の汚れを取るためだと教わったが、今になれば余計に汚れるだけだ。おばあちゃんがホウキで掃いて回った後は拭き掃除だ。これも半分は私の仕事。隅々まで気を配らないと怒られる。
春から夏、秋にかけては庭と道路に水撒きをする。井戸を使っていたので手漕ぎポンプで小さなバケツ(力がないので大きいバケツは使えない)に何回も入れて往復をする。何で道かと言えば、舗装でない道路は車(当時はトラックやバスばかりだが)が通ると埃が舞うからである。涼しさを得るための打ち水とは違う。

その後が私の遊び時間になるのだ。夕方にはまた掃除をする。「じいちゃんが帰ってくるから、綺麗にしよう」がおばあちゃんの口癖だった。朝と同じことの繰り返しだ。今、思えば異様に神経質だと思う。その後、私は風呂に水を入れる。先ほどの井戸から風呂場まで筒状のパイプを繋げてポンプを一生懸命漕ぐのだ。それで終了ではない。風呂焚きを4歳でやるのだ。新聞紙と薪で火をつけて石炭をくべる。その間、おばあちゃんはご飯の支度をしている。今の子供は多分やらないだろう。

彼女の考えは「これからは男とか女とかは関係ない、何でもできるようにしておけ」だ。進んでいるのか、こき使う理由なのかは今では判らない。数年後には私の仕事に料理と洗濯も加わる。
これも愛情だと子供心に思っていた。おじいちゃんは何も言わない。
他人から観れば厳しかったかもしれないが、私はそれが普通だと思っていた。

おばあちゃんは徹底していた。「お前は預かった子」であること。「恩を感じること」、「いずれは返されること」そうして、「お前の両親は不出来だ」と言うこと。そんな境遇で片親の私が曲がらないように(非行に走らない様に)教育していると言った。これも口癖だった。

一見、酷い育ての親だと思うかもしれないが、私は感謝している。なまじ優しくされて、後でしっぺ返しを食らうくらいなら最初からはっきり判っていたほうが、たとえ、幼くてもそこに一線が引けるからだ。私の幼い時の楽しい思い出は余りない。逃避をしている一人遊びの一時だけだ。

幼年期-3に登場した孫である明日香が来るとなると、さらに厳しくなる。ケジメだ。彼女には何もやらせない。当たり前だ、お客様なのだから。今ならわかる。私はといえば料理を運んだり、近場の商店に買い物にやらされりと、「何で僕ばっかり」と思ったことも確かだ。


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少し以前の失敗談 tom room:「悲しき軽運送屋の顛末記」


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