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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-5 [思い出]

昭和30年も10月になろうとしていた。私に弟が誕生した。4歳年下だ。序章でも紹介したように、名前は「実」である。何時も思うのだが、私が一番好きではない名前は自分自身である。父親は頭がそこそこ良かったらしく、学問が好きらしかった。3人の兄弟で「修」はオサメルの意味で一番努力をしなければならない。割に合わない名前は、人生を象徴している。兄は父方の親戚に行ったので消息はわからない。が、弟は私から見てノンビリ屋な性格なのに、何に対しても成功する。努力しなくても実ってしまう。一方の私は一生懸命(自身ではそう思っている)頑張っても余り大成しない。だから、自分の名前は嫌いだ!

残念ながら、その弟も他人に預けられた。黒川のおばあちゃんの紹介である。知り合いのその夫婦も裕福ではない。左官屋を生業にしている。毎日酒を飲んで酔っ払っている印象がある。しかし、二人とも弟には優しかった。と言うよりも真綿に包んで育てたと言うほうが正しい。育て方(躾)を知らないといったほうが正しいかもしれない。
貧乏人が育てたにしては、何も出来ない子供だった。これはその後にエピソードとして書くことにしよう。

私は12月生まれだ、それも26日。微妙な日に生まれたものだ。クリスマスの次の日…歴史を見れば、「毛沢東」「徳川家康」などの世を治めた人物がいるが、私は凡人以下である。
昔から「セント・ニコラス」の言い伝えはあるが、サンタクロースはコカ・コーラが現在の形を作ったとか。当時、その習慣があったかは覚えていないが、コーラはまだ無かった。
ちなみにラムネである。もう一つの炭酸水といえばサイダーだろう。近くの店にもバケツの中に入れ、水を流しっ放しにして冷やしていたのを記憶している。それを買いに行って飲んだ時の清涼感が良いのだが、家に帰って来たときには、また喉が渇いていると言う矛盾が脳裏をよぎった。何しろ片道15分かかるのだから。

ま、それは余談として、クリスマスにはプレゼントを貰うのが子供の楽しみである。昭和31年、満5歳になった……昨日(クリスマス)の朝は何も枕元に無かった。一昨日、それとなく欲しいものを口走っていたのだが、結局、失望感しかプレゼントしてくれなかった。それなら誕生日である日にもらえるのかといえば、それは甘い…何故に居候に金を出してまで喜ばせなければならないのか。裕福な家庭ならそれもあるだろう。
私の「その家族」は貧乏なのだ。おじいちゃんは一応、国家公務員である。しかし、学歴がない。下働きに高額な給料は出ない。不景気の今だから公務員は有利であるが、その昔は「公務員にはなるものではない」といわれるくらい安い賃金だったのだ。ボーナスだけは率が良かったようだが、基本給が安い閑職ではたかが知れている。
以来、私は18歳までプレゼントと言うものを貰ったことが無かった。さすが「恋人」が出来たときには彼女からはあったが、一番欲している子供の頃に欠落している喜びである。

中には何も貰えない子供もいるのであろうから贅沢は言っていられない。こんな愚痴を言うのは私の我が侭なのか。そんな中、毎年欠かしたことの無い、一種のプレゼントがあった。クリスマスケーキだけは家に届いた。
しかし、26日の昼にだ。どうして…なんて疑問は子供の頃には思わなかったが。母親がキャバレーに勤めていた関係である。大人の方は、いや男の方はもうご存知だろう。クリスマスの日に「そこ」へ行けば必ず売っている。ケーキ屋でもパン屋でもない飲み屋でだ。飲んで帰るのだから「家族に買って帰りなさい」なのだ。四角い箱を持って千鳥足の親父が帰路に着いている風景を見たことがあるだろう。
その夜は売れ残りのケーキが当然出る。それを持って次の日に母親がやってくる。一日遅れの私のサンタクロースなのか。

ある年、相変わらず律儀にケーキを持って訪れた君代(我が母親)、本当のところは私に持ってくるわけではない。「一年に一度くらい親らしいことをしろ」と言う、おばあちゃんの言葉に従っているだけだ。しかも売れ残りで。この人、育ての親には頭が上がらない。彼女の性格は後述しよう。
話を戻そう。届いたケーキ、おばあちゃんは直ぐには開けない。そのまま仏壇に供えるのだ。これがこの家の慣習なのだ。先祖には信心深い人だった。なので今日の誕生日にはケーキは出ない。数日の時間を経てお目見えするのだ。
この年も同じことが続いた。特別大きい箱だった。
2日後の夕飯に箱がちゃぶ台(テーブルと言うほどのハイカラなものではない)の真ん中に置かれた。

あっ、大事なことを書き忘れていた。当時、家の家族は4人だった。私を含めて。おじいちゃん、おばあちゃんと…次女である明子である。長女が夏江なので次の子は秋を一字入れるつもりでいたが、市役所で間違った親が明の字を付けてしまったらしい。当時20代前半、現在の私の娘と同じくらいの年齢だ。この人のことも後述するとして、4人の目の前の箱を開けてみると…そこにはべったりと平らになった液体が入っていた。まるでエイリアンのようにぷよぷよしていた。これがケーキ?

母親はアイスクリームケーキを持ってきたのだ。そういえば当時流行っていた。ドライアイスは入っていたのだろう、しかし、流石に2日はもたない。これは食べられない。ススルか? そんなことをしても美味しくない。当日開けていたらなんて思っても後の祭りだ。何となく大きい思ったのは断熱のための分厚い素材の箱だったからだ。今なら発砲スチールなのだろうが、その時は何だったのかはわからない。5歳の幼児には。

●こちらもどうぞ--------------------------------------
少し以前の失敗談 tom room:「悲しき軽運送屋の顛末記」


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コメント 4

初めまして。ご来訪ありがとうございました。
なかなかの読み応えあるブログですね!私には無理です・・・(笑)
また遊びにきますので、おもろい記事期待してまーす。
by (2006-06-23 22:01) 

瑞穂

初めまして、先日は私の拙いブログにお越し頂きありがとうございました♪
tomさんは色々とご苦労されているのですね。「悲しき軽運送屋の顛末記」
も読ませて頂きました。10年前に亡くなった父が最後にしていた仕事が
軽運送屋でした。数々のご苦労を読ませて頂いて父の苦労話と重なりました。
これも何かのご縁だと思います。これからも宜しくお願い致しますm(__)m
by 瑞穂 (2006-06-25 16:05) 

tom-d1951

りんさん、こんばんわ。
読みにくいブログへようこそ。ご期待に沿えるように頑張ります。
面白いかどうかは、事実ですので小説のようには行くかどうか…今後とも宜しく。
by tom-d1951 (2006-06-25 21:37) 

tom-d1951

瑞穂さん、お父様も同業でしたか。その時代大分、大変だった方達が居ると聞いています。私は途中で挫折? したのですが、人生の中でこの事実は消えません。お父様のご冥福をお祈りいたします。さぞ辛かったと思います。
こちらこそ、宜しくお願いいたします。
by tom-d1951 (2006-06-25 21:42) 

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