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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-8 [思い出]

私が次に目をつけた遊びは「自転車」だった。周囲の子供たち、特に男の子は皆、これに夢中になっていた。私はといえば勿論、子供用自転車など買ってはくれはしない、贅沢品である。他の子供たちが乗っているのを、ただ観ているだけである。「貸して」といってもその時代では高価な代物だ。乗ったことの無い私に貸して傷でもつけられてはと、誰も乗せてはくれなかった…と言うか、私は親がいない特殊な子供として見られていたのかもしれない。
いや、同世代にではなく、その親たちに。余り関わらせたくない友達だったのだろう。結局その歳では自転車に乗ることは出来なかった。

しかし、子供同士は関係ない。自転車は駄目だとしても、紙で折った飛行機を飛ばして競争したり、当時流行った「鞍馬天狗」の真似をして風呂敷をかぶり「チャンバラ」や、勿論、木登りも根城作りもやった。
ある時、友達は皆、幼稚園へ。私は一人で基地を作ろうと森の中を物色していた。枝の上に板を渡して棲家にする、形の良い木を探して。一時間くらい林の中を徘徊して、丁度良い枝振りの木を見つけた。早速、私は登り始めた。当時の記憶では相当大きい木だったかもしれないが、今思えば5歳の子供が登れる位のものだ。たいした高さではないだろう。途中Yの字に二股に分かれた枝があった。
そこに足をかけて更に上へ登ろうとした時に悲劇は起こった。挟まってしまったのだ。靴が取れない。しがみついている腕の力も疲れてきて、とうとう手を離してしまった。足だけで支えられている「宙ぶらりん」の状態だ。周りには助けてもらう人もいない。友達がいれば大人を呼びに言ってもらうのだが…どのくらい経っただろう、苦しくてもがいていた。段々、息が出来なくなって頭がクラクラしてきた。多分そのまま気を失ったのだろう…

気が付いた時には草の上に寝せられていた。目を開けると男の人が私の顔を覗いている。運良く枝払いにきた山の持ち主に見つけられたのだ。宙に浮いた子供を。それ以上時間が経過したら、私は今頃脳に障害が出ているかもしれない。もしかしたら死んでいたのかも。赤ん坊の時の栄養失調と、この時で2回目の危機が回避された。一人ぼっちが招いた事故ではあるが、そのことは帰っても親には言わなかった。今回が初めての告白である。何故なら本当のことを言って、一人で遊びに行かせてもらえなくなるのが恐かったからだ。
私は一人ぼっちは好きだが、除け者は嫌いだ! 外へ出られなくなったら誰にも相手にされなくなることが不安だった。

黒川家の親は街へ出るのが好きである。特におばあちゃんのほうは、社交的で街までの行きに歩いてゆくのは知り合いの家を転々と寄りながら、果ては途中の目的ではない商店やデパートなどで話し込むのが恒例だった。勿論、私もそれに同行する。しかし、大人の話が判るわけもなく、ひたすら終わるのを待っている、退屈した時間だ。唯一、一緒に行って楽しみなのは食堂へ入って普段は口にすることの無い「ソフトクリーム」とか、チャーハンなどを食べられること。帰りに太鼓焼きを土産に買ってきて頬張ることだ。

その昔(10年一昔と言うがもう四十数年前のことだ)、ここの街は繁華街だった。人は多く、店も繁盛していた。今のように「東京」一極集中型でベットタウンと化した過疎地では無く、地方都市に賑わいのあった時代だ。映画館など娯楽施設が多く(テレビはあるにはあったのかもしれないが、まだ普及しておらずこの地方には街頭テレビも無かった)、遠くからでも汽車に乗ってここ、県庁所在地まで遊びに来る人も多数いたらしい。聞いた話なので「らしい」としか言えないが。

一ヶ月に一回くらい、その映画を見に行く。大人向けの映画に私も連れて行かれるのだ。この市には8箇所の映画館が乱立していた。邦画は全社、洋画館が2箇所、成人向けの昔で言うピンク映画を上映しているところも一箇所あった。

ある日のおばあちゃんとお出かけ、映画館に行ったときのこと。入り口前の看板を仰ぎ見て、私は入りたくなかった。「怪談話」だ。5歳の子供にいくらなんでも酷である。決して臆病ではないと思うが、大人が怖がる映画を見られるわけが無い。
だからと言って、私だけ外で待つことも出来ず…この人、自分が行きたいとか欲しいと思うと、他人のことは考えられなくなる。そんな性格である。

昭和31年も夏のことだ。まだエアコンも普及していない時代、暑い時には怖い映画は定番になっていた。「四谷怪談?」幼い私には良くわからなかったが、とにかく恐ろしい映画だったと記憶している。最初のうちはそれでも画面を見入っていたが、そのウチ目をつむった。それでも音声は聞こえる。耳を押さえ、椅子の背もたれの陰へ身を屈めた。なので結局映画の内容なんて殆どわかっていない。
後から入ってきた人に「ここの席、空いてますか?」と聞かれたが、私が隠れていることを知ると笑いながら立ち去った。こちらは笑い事ではない。後でおばあちゃんに怒られた…「なんて恥ずかしいことをするの」、恥ずかしいことをさせたのは貴女だと今では言ってやりたいが、その時はベソをかいたのを覚えている。怖さより悔しさから。

悪夢の映画館を後にすると、日常の必需品を帰りに買う。一週間分くらいの買いだめだ。幼い私も荷物の割り当ては来る。そのまま駅まで更に歩いてゆく。バスの始発が駅だからだ。駅前には堅牢な建物で商店が立ち並んでいる。おばあちゃんは一生懸命に物色しては買い物に励むが、私にはこれ以上持ち物が多くなる心配だけが先にたつ。
駅前は今も昔も一番の繁華街だ。私は車が好きだが、その当時の夢は「バスの運転手」。そんな光景が沢山見られる、その場所が町へ出た終点になる。そこからボンネットバスに乗って、家まで30分。一番先頭の座席に座って、しかも横座りの席で進行方向の前に向いてかしこまる。丁度、運転手と同じ視点で短い時間を楽しむのだ。勿論、運転手の動作も見逃さない。

ほぼ一日かけたそのイベントの後は疲れて早く眠りにつく、夜中に今日の映画の怖い場面が出てきてうなされるが、美味しかったアイスクリームの夢は見ない。夜のトイレも我慢することになる。

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少し以前の失敗談 tom room:「悲しき軽運送屋の顛末記」


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