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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-10 [思い出]

相変わらず暑い、生まれて5回目の夏だ。私は懲りもせず道路に水撒きをさせられていた。遠くに陽炎が揺らいでいる。車なんて一時間に2台も通れば多いほうだ。熱風が時々吹いてくる。 それでも周りの景色は少し変わっていた。家が数件新築で建っている。後はまだまだ畑、遠くには林と萱葺き屋根の農家がある。

遠くに小さな黒い人影が見えた。街のほうからこちらに向かってくる。私は水の入っているバケツを持ったまま、その人を見ていた。黒い大きな木の箱を括り付けている荷車を引っ張っている。ガラッ、ガラッと一歩ずつ、一心不乱に…男の人だ、小柄だがガッシリした体格。段々近づいてくると顔も見えてきた。赤銅色で汗に光っている顔。初老に近いその人を私は知っていた。

前にも記したとおり黒川のおばあちゃんは顔の広い人である。いや、社交的な人といったほうが良い。 たとえば、バスを待って停留所に10分知らない人と一緒にいると乗った時には友達になっている。女性が子供を連れていれば5分とかからない。昔の人は言葉をかけられて「変な人」とは思わない。ニコニコしながら『可愛いわね、いくつなのかな?」なんていわれると、もう次から次へと会話が弾んでしまう。男の人にしたって「どこまでですか」とか、「暑いわねぇ」と会釈をしてキッカケを作ってしまう。 なので、この辺で黒川のおばあちゃんを知らない人はよそ者である。

荷車を一生懸命、汗の滴るのも気にせず、ランニング(今で言うタンクトップの下着版)姿で車を引いているその男も普段から良く家に来ている人だ。かなり重そうで、そのランニングも汗でピッタリ体に張り付いている。道は石ころだらけで真っ直ぐは進まない、一歩足を出すたびに左右に振られながら、それでもひたすら前へ進む。厳しい日差しの中をだ。

我が家(黒川家)から50mくらい台(田舎ではデェと呼んだ高い地域)の方へ向かうと、登り坂がある。そんなにきつくは無いが未舗装のそこを、重い荷車を引っ張るのは大変だ。私は手伝おうとバケツを置き、道の向こうへ走りよって、後ろからそれを押し始めた。なるべく人家の反対側を通るのだ。迷惑にならないと言うように。

「坊や、いいよぉ」と言う声が聞こえた。「上まで押すぅ」と私、たかが5歳の子が手を貸しても軽くなるわけではないが、それでも力いっぱい踏ん張った。途中、足元の悪い石に滑りながら。何度も「いいよぉ」といわれたが、とうとう坂の上まで登りきった。荷車を止め、腰に下げた手ぬぐいで汗を拭きながら、嬉しそうにその黒い箱の後ろに回ってきて「ありがとう、でも二度と手伝うんじゃあないよ」といわれた。私は別れの言葉を言った「またね、火葬場のおじちゃん」。

その当時としても余り憧れられる仕事ではない。荷車に黒い箱、昔この周辺では火葬場が転々と移転していた。理由は大学病院だ。近くに住んでいる人は余り好まない場所だ。なので、周りに家が立ち始めると別の人家が無い場所に移る。しかし、今のように車の発達していない時代、病院からそう遠くへは移れない。家族のもとで葬式を出す時には霊柩車があるのだがそれなりに金がかかる。身元のわからない人や、自殺して解剖に回された遺体、犯罪に関係したりして死亡した人、伝染病などで家に連れて帰れない人は直接荼毘にふされる。そんな遺体は密かに火葬場へと運ばれた。黒い箱の中には亡骸が入っていたのだ。

丁度、我が家の先150m程に当時の火葬場はあった。一日に何回も往復する姿を見たことがあったが、その中に何が入っているかは小学校まで判らなかった。病院へ行く時は軽そうに、帰りは酷く重そうだったことを覚えている。 たとえ判ったとしても、手伝ったに違いない。当時その広い場所に一人、遊びに行っていたからだ。友達は怖がって行かない。つまり、私は死に対してそれほどの恐怖心とか、嫌悪感とかは持っていなかった。そのカマの前で「火葬場のおばちゃん」と一緒に笑いながら遊んでいた。遺族が待合室でこちらを見て不思議そうにしていたに違いない。 もちろん、黒川のおばあちゃんの友達でもある。

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少し以前の失敗談 tom room:「悲しき軽運送屋の顛末記」


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