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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-19 [思い出]

これまでの数年は風の音と雨の音、そして鳥やセミの鳴き声、木々の枝がこすれる音や葉の揺れるユッタリとした、それでいて一人遊びの多い孤独な時間が過ぎていった。私は6才になっていた。まだ小学校に入学する少し前の話をしよう。この年、黒川家ではおばあちゃんが体を壊して床に就く日々が続き、相変わらず、いやそれ以上に私は下働きのような手伝いをしていた。

家の目の前にある畜産試験場には官舎という仕事に従事している家族の住まいが並んでいた。 そしてその人達が畑を作っている。 我が家の目の前に広がる畑はそれである。道を隔てて土手を降りていくと色々な野菜や果物を栽培しているのだ。

官舎の人達とはおばあちゃんを通じて私も顔見知りだ。そんな中でも仲の良かった家族が居た。といっても子供は既に結婚してその官舎には居なかった。夫婦二人の寂しさからか、私を可愛がってくれた。 ある日、「シュウちゃん、そろそろ畑にイチゴが出来てきたから食べごろのを採って食べて良いよ」といってくれた。当時としてはどこの農家でも作っている、そして私が一番好物の果物だ。バナナなんて今になると皆、同じフレーズを言うが病気をした時の見舞いと、どこかのおすそ分けでしかお目にかかれない高価な食べ物だ。 マスクメロンとかは勿論、りんごやみかんも季節物で一年中あるわけではない。

なので私は早速畑に飛んで行った、そうしてその赤々とした甘く美味しそうな小粒の果物を、嬉々として畑で採って食べた。 満足した頃に「こんなに美味しいのだから、おばあちゃんやおじいちゃんに持っていってやったら喜ぶだろうなぁ」と私は考えた。 そこで家に戻ってバケツを持って再び畑へ。一生懸命に熟しているイチゴを探しては採っていく。入れ物に半分くらいになっただろうか。いくら沢山あるといってもやはり遠慮もある。

私は遠慮の塊である。幼いときからのおばあちゃんの躾だ。 少し話がずれるが、村などの知り合いのところへ世間話に行く、それについていく私。当然その家でお茶が出る。菓子が出る。 「シュウちゃん、お菓子食べなさい」と進めてくれる。子供なのだから素直に「ウン」といって手を出す。すると、みきばあさんは「まあ、この子は直ぐに手を出すんだから」などと怒るのだ。私は食べたいと言う気持ちと裏腹に我慢をする。 家へ帰ってくると正座で小言を聞かされる。「遠慮と言うものを覚えなさい、私の躾がなっていないと思われて恥をかく」と言うのだ。 犬と同じだ、何回か「まて」をされると習慣になる。どこへ行っても「くれる」と言うものを貰わない、可愛く無い子になっていた。以来、現在まで私は遠慮で損をするタイプになってしまった。

話を戻そう。ウキウキとイチゴを採ったバケツを持って家に帰る。病で寝ているおばあちゃんに洗ったそれを皿に乗せて持っていった。 すると「お前、お金も持っていないのに、これどうしたんだい」と問い詰められた。細かい話をしないのがいけなかったのか、「あそこの畑で採って来た」と話した。 おばあちゃんの形相が変わった。「お前は盗みをしたのか」というのだ。「採った」が「盗った」になってしまった。言い訳をする前に私は腕を捕まれ、門の外まで連れ出される。 官舎のその知人に謝らせに行こうというのだ。病人にしては力がある。6才の子供などそんなものなのだろう。 引きずられてその家へ連れて行かれ、頭を下げさせられる。家人に「私が良いといったのよ」と説明されるが、子供を庇っていると取られたらしい。その人が止めても頭に血が上った彼女には通じなかった。 その頃の「おばあちゃん」は40才代半ば、そろそろ更年期障害も出ていたのかも知れない。それとも病気がそうさせたのか、とにかく直ぐに「かっ」とすることが多かった。

家に帰ってくると寝ている布団の前でまたまた正座させられて、懇々と説教をされる。「このまま大きくなったらどんな人間になるか、恐ろしい」とまで言われる。もう、疑いは晴れない。私は泣いた。とめどなく涙が出た。しゃくり上げながら声を出して。本気で泣いた最初だったと思う。それは怒られたからではなく、おばあちゃんのために一生懸命に採ったイチゴを捨てられ、疑われ続けた悔しさからだ。 6才の子供がどのように言い訳をしたら疑いが晴れるだろう。ただ、ただ、それが済むのを待つばかりであった。

これまでの大半はおばあちゃんの話で終始した。しかし私は「おじいちゃん子」である。以前も書いたが、無口で温厚、何をしても怒らないというのが子供の頃の印象だ。 私はその歳では当然小遣いを貰っていない。使うこともあまり無かったが、それでもたまに欲しいものもある。殆どが飲み物やお菓子である。そんな時、「おじいちゃん、○○が欲しい」といえばニコニコしながら黙って財布から小銭をくれる。 おばあちゃんが厳しくて、おじいちゃんが優しい。教育的にはバランスが取れていたのかもしれない。 唯一、甘えられる人ではあるが、平日の昼間は仕事に出ているので普通の子供とは違い、一日中「母」に甘えると言うようなこの歳には大切な経験は無い。 だいいち、母親に甘えるような深い愛を男である「おじいちゃん」に感じることは無かった。それは今、「父親」になった私もそうだが、抱きしめるとか頬擦りをするとか手を握るなどのベタベタと寄り添うようなことはさせないのだ。 それとも他の父親はそういう甘え方をさせるのだろうか。私はそういう育てられ方を経験していないので分からない。もし、お父さんにもそんな優しさがあるのだとすれば、私の子供は可哀想だった。私もまた、自分の子供に「おじいちゃん」にそうされたように接しているからだ。

おじいちゃんの口癖を書いておこう。私には印象的である。 「親を外すと子供まで外れる」である(この外すとは生活、金銭、心情、人格的に欠落するの意味だろう)。自分も親には苦労したらしい。人生に良いことが余り無かったのだろう。一生懸命働いて大成する「一代で財を成す」人もいれば、いくら努力しても親や家族に足枷を掛けられたような人生を送る人もいる。あてにしてはいけないが親の財産がある人は絶対的に人生を一歩リードしている。受け継いだ人の人格にもよるが少なくても苦労はしないだろう。 「お前も気をつけろ」と言うおじいちゃんの戒めの言葉だったかもしれない。今、私は外れているのかもしれない。親として。 私の「本当の親」も外れているからだ。

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少し以前の失敗談 tom room:「悲しき軽運送屋の顛末記」


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