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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-20 [思い出]

昭和32年、6歳の春だ。この年の4月からは、私は小学校に行くことになる。新しい年(新学期の意)を迎えれば友達も出来る。その話は「少年期」で記することにするが…

そんなうららかな季節になると黒川家の親と私は墓参りに行く。「春の彼岸」だ。
私は3才の頃から墓参りに連れて行かれている。年に最低でも4回である。春・秋の彼岸、夏のお盆の前に掃除をする。それに年末。本当は正月に行くものらしいが、墓が遠く正月には人が来ることは前述したとおりだ。なので、12月も末になるといくら寒くても掃除である。

その当時は自家用車も無く、タクシーなんて贅沢だ。バスで小一時間、霊園の入り口から20分歩いて到着。早速、カマで草刈りだ。これはおじいちゃんの仕事、それに習って私は草を抜いていく。それに花立の水の取替えや…と言うのは今でも、どこでも当たり前だ。
しかし、ウチの違うところはそこから知り合いの墓をはしごする(序で参りは良くないと言われるのだが) 。みきばあさんは、ご先祖様にまで社交的だ。次から次へと4箇所はお決まりのコースだ。霊園は広大だ。終わるのは午前中に行っても午後の3時頃になる。私達人間はその後、近くの食堂で昼食をとる。その間、私に掃除の仕方やコースを教え込む。「墓守」にもするつもりで一緒に連れてきているのだ。
そして現在、私は相変わらず墓参りに行っている。誰に言われるわけでもなく、躾けられたとおり。既に黒川家の夫婦は逝っている。3人で来ていた霊園も今は自家用車で私一人、それに回数も年6回に増えている。そう、おじいちゃん・おばあちゃんの命日にも出かけている。条件反射とは言わないまでもそれに近い。行かないと気分が悪いのは「すり込み現象」だろう。黒川の娘は、一人は亡くなっている。もう一人は墓参りには行くが嫁に出ている。私はおじいちゃん・おばあちゃんと墓で会うのが好きだ。それも一人で。いや「三人で話す」のだ。

今までの幼年期では育ての親に対して、愚痴ばかり列記したような気がする。それは私が3才から5才の記憶とその時の感情を考えるとこうなってしまうのだ。もっと悲惨な子供時代を送った人もいるだろうし、今でも生きていくのが困難な子供も世界中にいることは承知している。
ましてや、預かってくれた夫婦が意地悪をしたりするはずも無く、教育・躾けとしての言動、行動である。他人としては充分な愛情を与えてくれたのだと今になれば分かる。

私はこの「あえぐ夢」を書く前に「男たちの大和」と言う映画を見ている。観たと言う人もいるだろう。細かいことは書かないがこの話、戦艦大和が沈んだところへ行きたいと漁師に頼む女性がいる。元、その大和に乗っていた老人が船を出してやる。その時のやり取りだ。大和に乗船していた戦友の兵士が終戦後、11人の戦争孤児などを引き取って育てた。実はその女性も本当の娘ではなく、父親は「育ての親」である。そうして、その親の意志である「私の遺骨は大和の沈んだところへ返してくれ」の言葉どおりに海へきたのだ。苦しい凄まじい戦いの後、その兵士は何故に多くの恵まれない子供を引き取ったのか。それは、「一緒に戦って死んでいった戦友の身代わりに子供たちを育てた」のだと言う。

これは物語であろう。黒川家は軍隊の賄いをやっていたと書いたが、何十人、いや何百人と兵隊(大和と違って陸軍だか)を戦地に送り出したのだと思う。現実におじいちゃんの弟は南方の島で戦死している。山部裕次郎おじさんも黒川家から出兵して戦地へ赴いている。
飯を食わせると言うことは親代わりに育てると言うことだ。可愛がっていた、親しくしていた人たちを戦いに行かせる事への悲しさ、苦しさは私が計り知れない苦渋の想いかもしれない。序章に書いたように、確かにおばあちゃんが自分の子供を亡くしたことも、私を預かることに起因していたのだろうが、夫婦で協力しなければ子供は育てられない。夫婦二人の戦争でのこんな経緯も困った子供を預かる原因の一つになっているのかもしれないと、この映画に教えられた。

実は私の前に一人女の子、私の後に3人男女の子供を預かって育てている。私だけが本当の親から離れ、成人まで居候をしていた訳だが、終戦後、孫まで入れると7人の赤ん坊を育てた(自分の子供は数に入れていない)。共稼ぎをしなければ生計を立てられない夫婦とか、事情があって母子家庭になり、父親から認知してもらえない孤児同然の子だとかを困った人から預かった。
私はこの映画のようにもしかしたら、送り出して亡くなってしまった人々の身代わりなのかも知れない。黒川夫婦は当時のことの多くを語らなかったので、今となっては真意は分からない。

もし、そうならば不甲斐無い男になってしまった自分を顧みると二人に申し訳が無い。残念だ。その一例として、前作「顛末記」で失敗した時、既に旅立ってしまったあの夫婦に「こんな人間にするために一生懸命育てたのではない」と言われているような気がして涙したことも確かだ。

ちなみに、7人目の子供を親に返した後、私に「もう一人預かってよいか」と聞いたことがある。それは私にまた、子守をしろと言うことだ。既に16才で勉強も忙しい最中、「いい加減にして」と言ってしまったことを、今は後悔している。

これで私の幼年期の思い出は終わりだ。もっと沢山記憶があるが、特別書くことでもない。「後述」と書いていまだ出てきていない「本当の母親」の、「弟の実」のそして「明子おねえちゃん」の性格、序章で出てきた夢の中の「博おじさん」などは少年期で書くことになっている。
小学校前までの感情を素直に書くと起伏などあまり無いのが本当のところだ、あとから思い出すから大人になってからの想いがプラスされてしまう。更に表現力の無さにつくづく悔やむがそれは勉強不足、所詮素人なのだから小説家のようには行かない。読んでいただいた方には感謝の念に堪えない。

次は「少年期」だ。続けてみたいとは思う…今までは勢いで書いてきたのだが。それは暫く時間をおいて考えてみたい。              とりあえず「少年期」へ続くか…?

●こちらもどうぞ--------------------------------------
少し以前の失敗談 tom room:「悲しき軽運送屋の顛末記」


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mama-witch

こんにちは、お久しぶりです。身辺あれこれ忙しく、約一ヶ月ぶりの更新です。詩や小説ではありませんが、良かったらちょっと覗いてみてください。そして何かご意見を。

挑戦日記1『この夢をあきらめない!』
http://blog.so-net.ne.jp/witch-vill/2006-07-21

挑戦日記2『NPO法人を作る』
http://blog.so-net.ne.jp/witch-vill/2006-07-21-1
by mama-witch (2006-07-25 01:49) 

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