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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-3 [思い出]

温かで、柔らかい手だ。おじいちゃんでもなく、おばあちゃんでもない、ましてや母親でもない。初めての体験だ。私は「明日香」と手をつないでいる。小さくて可愛い手、幼い力が握り返してくる。私には当時、友達がいなかったので親以外の人間と、いわゆるスキンシップなど手に触るだけのことでも経験が無かった。大人の手の感触ではないそれを心地よく感じていた。
目の前には明日香の父親である「山部 裕次郎」がカメラを向けている。ポーズをとる二人。彼の趣味である写真の構図に収まっているのだ。嬉しかった。チョット早いが、おそらくこれが私の「初恋」だったのかもしれない。淡くて幼い。昭和30年、4歳の春まだ遠い寒い季節だった。

目の前は広大な敷地の畜産試験場、隣は市立病院、子供の足でも10分も歩けば大学付属病院がある。しかし、他には何も無い。畑と森が見渡す限りうねった地形の中にある。道路は数キロ手前で舗装が切れている。石ころを敷き詰めた、ところどころ砂埃の立つ土色で、雨が降ればぬかるみになる道だ。この村(後に町になる結構広い地域)から出ることを、街へ行くという。15分歩いたところに小さな食料品店があるが、そこにはたまに菓子を買いに行く程度だ。食料の殆どが自給自足、足りないものは魚屋がリヤカーで来る、パン屋が自転車で来る、豆腐屋と納豆屋、後は私の大好きなアイスキャンディ売り、一ヶ月に一回紙芝居が来るが子供は少ない。

街には何しに行くのか。衣類と肉などの必需品の買い物、それに映画を見に行ったり本屋、たまに食堂で支那そば(中華そば)を食べる。ラーメンと言う名の食べ物はない。娯楽はそんなものだ。テレビもまだ私の目の前には無い。ラジオである。街から帰ってくると舗装の切れているところから急に田舎になる。集落と言うのではなく、家屋は点在していると言ったほうが良い。歩きで街まで行き、帰りは2時間に一便のボンネットバスに乗る。荷物があるからだ。

玄関の前、夢中で明日香を撮っている裕次郎は獣医である。畜産試験場のエリートであったが、後に南の地方へ赴任していった。一年に数回明日香を連れて、母親か父親が黒川家に来るのである。母親は「夏江おばさん」である。つまりは実家へのご機嫌伺い、孫の顔を見せに来るのだ。

「山部」(裕次郎と夏江)夫婦は一まわり以上、歳が離れている。惚れた腫れたで結婚したわけではないらしい。黒川家の長女である夏江は、みきばあさんの薦めで彼と一緒になった。理由が振るっている。試験場に勤めていた裕次郎は、牛乳・肉の塊は勿論、バターやチーズ、コンビーフやベーコンなどを調達できたのだ。食糧事情の悪い戦争後半から終戦時に貴重な食料である。
人身御供のように結婚させられた彼女はその時17歳だった。

おばあちゃんは昔、「やり手ババァ」のような仕事をしていたらしい。芸者の手配などである。その他の仕事は教えてくれなかった。気丈で外面の良い人だ。男を男とも思わない当時としては強い女性だ。とはいっても決して男勝りではない。女らしい、その村では「小町」といわれるくらいの綺麗な容姿だった。自分で言ったわけではない。周りが認めていた、今、若い頃の写真を見ても頷ける。

あるとき夜遊びが過ぎて深夜に家へ帰ることになった。おばあちゃんとその女友達、私も一緒だ。街灯は無いが、月明かりが「コウコウ」と照っている。前を男の人が歩いていた。見るからにヤクザ風だ。女性二人がなにやらコソコソと話し始めた。周りは畑と林で誰もいないばかりか、狸が出そうな藪の中の一本道である。
やにわに、おばあちゃんがその男に向かって「バカヤロー!」と叫んだ。そのあと何か言ったような気がする。それを聞いたガタイのシッカリした男が振り向いてこちらに凄い形相で近づいてくる。「なにぃコノヤロウ、タダじゃおかねぇぞ!」と怒鳴り始めた。その筋の人に「因縁」をつけたのだからさぁ大変。私は恐さで震えていた。と、おばあちゃんはにっこり笑って「あらっ、貴方に言ったわけじゃあないのよ。この人(隣にいる友達)に言ったのよぉ、勘違いしちゃった?」…そのまま私の手を引っ張ってスタスタとその男の前から去っていく。見えなくなったところで友達と大笑いをしている。
茶目っ気があると言うか、恐いもの知らずと言うか、その後にも私はおばあちゃんと出かけてはヒヤヒヤすることが多々あった。彼女、当時41歳、まったくおばあちゃんと言うには可哀想な年ではある。

おじいちゃんは温和で無口な人である。誰にでも優しく接する。余計なおしゃべりはせず、コツコツと仕事をこなす。力強く、筋肉質でがっしりした体格、顔はこわもてで彫りが深いが、私にも生涯一度しか怒ったことがない。勿論、手を上げたことは皆無だった。彼が亡くなった時、戒名に「穏」と「慈」と言う字が入っていたくらいだ。誰もが認める温厚な人であった。なので、特別なエピソードが無い代わりに平和な人生だったと思う。私もそんな人間になりたいとおもった。残念ながらいまだに、そうはなれないが。

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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-2 [思い出]

夜は相変わらず母親に対する暴力と私への折檻が続いた。それが原因で整形外科へ通うこともあった。一度は釜を投げつけられ、頭を切って何針も縫うこともあり、今なら当然、傷害事件で警察行きである。
子供に対しても施設に引き取られてしまうような幼児虐待である。しかし公にはならない。誰もが無関心なのだ。隣の家人は、今で言えば廃品回収業者だ。昔は「クズ屋」と呼ばれて蔑まれていた。リヤカーを引っ張り、瓶や雑誌、鉄屑など、中には空襲で落ちた焼夷弾の筒なども引き取っていく。全部で数十円の世界だ。
そんな人たちと一緒に暮らしていたのも、父親が家に生活費を入れず、酒代に変わってしまうせいだった。私もまたヒモジイ思いをしていた。

人間は一生のうちで良い時と悪い時が交互に来るとか、苦労すれば晩年は良くなるとか言われるが、そんなことは無い。努力をしても這い上がれない奴はいくらでもいる。テレビなどで昔は辛かったが今は成功しているなんて人の話を見て満足している人に限って自分は不幸だったりする。私もその一人だ。

昭和29年の夏、私の忘れられない出来事がある。幻でもなく、思い込みでもない鮮明に…3才の記憶。
それは大きい人だった。手も分厚く骨太で頼りがいがある大きな。

暑さが照り返す石ころだらけの道を、私は母親に言われて近くのパン屋にコッペパンを買いに行った。確か一つ5円、ジャムをつけると10円だったと思う。紙袋に入れてもらって家に帰る途中だ。
急に影が出来た。小さい私を覆い被せるように…誰かが前に立っている。私は頭(かぶり)を上げてその人を見上げた。逆光で顔は暗く、よく見えない。二人の距離は5歩くらいだっただろうか。じっと見ている私に「修」とその人が口を開いた。聞きなれた声だ。「おじいちゃんだ!」直感的にそう思った。
大きな人はしゃがんだ。今度ははっきりと顔が見えた。半年前まで一緒に暮らしていた。幼い私の記憶でも判る。「わーぁ」っと泣き出した。少しの間が空いて手が延びてきた。その人に抱きつこうとしたが、足を出した瞬間涙で見えない足元の石に躓いて私は転んだ。袋が破けてパンが転がっていくのを、何故か覚えている。

力のある腕で抱き上げられた私は分厚い胸の中で泣いた。懐かしい故郷に戻ったようなにおいがした。多分「おじいちゃん」が吸っているタバコの臭いだろう。「シンセイ」と言う名のタバコだ。
家まで「おじいちゃん」の腕の中だ、幸せだった。この人なら。

彼は私が連れて行かれて以来ずっと市内を探し回っていたらしい。大学付属病院に事務と下働きをして糧を得ていたのだが、昼間と泊まりの交代制。「泊まり」の日は日中は休みになる。本当なら体を休め、睡眠をとる時間を割いての探索である。その気持ちを考えると今でも目頭が熱くなる。
何故にそれほどまで私にこだわったのだろう。多くを語らない人だ、その答えを聞く前に逝ってしまったので未だに詳細はわからずじまいだ。ただ、「おばあちゃん」も一生懸命看病して、やっと健康を取り戻した私をとられて憔悴していたらしい。その為、せめて安否だけでもと思った行動かもしれない。半年も風の便り(多分知人の噂)だけで、ようやく探し当てたのだ。

私の家へ着いた「おじいちゃん」は母親にこの半年間の事情を聞いて「この子は連れて帰る」と強い調子で言った。母親も覚悟はしていたらしい、このままではいけないと。その後、実の親はまたまた離婚をした。それに「おじいちゃん」が介入したことは想像がつく。
そのまま私は育ての親の家に戻ったのだ。
だが、それだけでは終わらない。こんな状況で母親の腹の中には、私の弟が宿っていた。夫婦と言うものは不思議なものである。自分が結婚した現在でもこの状況は解せない。

暫くの安堵の日々が続いた。
母親は再び水商売へ、夫に暴力を振るわれ細々とした生活をしているより彼女にとっても幸せだったのだろうか。


※昨日6月16日に「ALWAYS 三丁目の夕日」を見ました。劇場には行かなかったのですが、DVDのレンタルと販売が始まったので。よく出来ていますね、私のこのブログ「あえぐ夢」にオーバーラップしてしまうところも多々ありました。私があれをパクッたと思われるかもしれませんね。大筋では似ていませんが(まだ始まったばかりのブログですが、既に全体のプロットは出来ている)。当然あちらが先なのだから、パクリまで行かなくてもあの映画に乗っかったのだと思われても仕方ないでしょう。しかし、私は事実を淡々とかいているだけです。この頃テレビでも「懐かし物」が流行みたいですが、序章-1~2で書いたような動機で綴っているだけなので今後とも宜しくm(__)m



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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-1 [思い出]

記憶と言うものはどのくらい前からあるのだろう。中には生まれてくるときに、産道から光が見えたとか、お母さんのおなかの中を覚えている子供がいるのだそうで驚いてしまう。そんな子も3才迄にその記憶は消えてしまうと言う。
母親のお腹の中は感覚があるのかもしれないが、光が見えたと言うのは、まだ目の見えない赤ん坊にとって可能だろうか。何万人に一人くらいは大人になっても覚えていると断言する人も居るが、幼い時の話を親がした時に頭の中で想像してしまうように思える。

私も一番最初の思い出はそれに近いかもしれない。しかし、そこには多分に不安があったことも事実だ。2才の時の記憶だ。
昭和28年秋の頃だった。光景は畳に土間。柱と玄関から一段上がる廊下があった。結構広い場所だ。自分自身が小さいので広く見えたのかもしれない。育ての親と、本当の母親の間で話合っている。
そうして、母親は私に手を伸ばして「行こう」と言ったのだ。その時の不安、生後3か月から育ての親と一緒だった、ようやく「ここが私の家だ」と思い始めていた、「居ても良い家」と感じていたのだが、不安感がムクムクと湧き出してきた。
子供心に予感と言うものがよぎったのだろう。どこかへ連れて行かれる! 私が2歳もあと数ヶ月で3才になろうとしていた時期のことである。門を出る時までは記憶にある。その後は途絶えた。

人間は一生で3%しか脳を使わないそうだ。些細なことまで幼い時のことを覚えていたらどのくらいのパーセンテージで脳は使われるのだろう。やはり、衝動的なことや、恐怖心・不安感などの画像が断片的に脳に焼き付いていくのだろう。途中は途切れてしまう。

次に思い出されるのは恐怖から来る記憶である。私が3才、昭和29年になった寒い時だと思う。炉辺に火があったのでそう感じた。
「やだぁ! やだぁ! ごめんなさい」と泣きながら逃げている光景だ。以前にも書いたが自分の姿は見えない。テレビドラマではないので回想シーンで自分自身が出てくることは無い。タダ情景が動いているだけ。ドタバタと走り回る。小さな部屋だ。一間(ひとま)の8畳くらいの部屋だろうか、後から追いかけてくるのは父親だ。夜の裸電球の中で怒鳴り声も聞こえる。私は隣の家まで走り回る。他所の家族が飯を食べている。その後ろを回って逃げるのだ。親も追いかけてくる。変な光景だ。誰も止めない。
実は一つ屋根の中に2世帯が壁を隔てて暮らしている、あてがわれているのは一部屋だけ、そこで一家が暮らすのだ。隣とは廊下でつながるボロ長屋だ。これが何軒も連なっている。

たわいの無いことでも酒乱の父親は怒る。自分の気に入らないことは全て。幼い私がチョット大きな声を出しても怒り出す。恐い人に感じる。その結果、捕まると私は押入れの中に入れられる。恒例行事になってしまった。広くて照明の点く今のクローゼットとは違う。幼い子供にとって、そこは狭くて底なしの沼に鬼や怪物のすんでいるような妖気漂う真っ暗な処なのだ。私は泣きながら許しを乞うが、酔っ払っているのでそんなことはお構い無しだ。最初は襖を叩いて「出してぇ、お願い!」と懇願するが、結局泣きつかれて寝てしまう毎日が続く。その間でも外では母親への罵声が続く。場合によっては暴力も振るわれる。そんなことが半年も続いた。

私が3か月の時に別れたはずの両親だが、よりを戻した。冒頭で大人達が話し合っていた光景は、これである。「自分が育てるので返してくれ」と母親が懇願していたのだ。この男(父親)、シラフの時は非常に腰が低い、口も上手い。でなければ代議士の秘書など勤まらないのだろう。上手く丸め込まれると、ほだされてしまうのだ。バカで懲りない女だ。私の母親は。わずか2年余りで心が癒えたのか。

子供にとってはたまらない。預けられたり、戻されたり振り回される。その挙句が毎日の折檻だ。当然トラウマができる。トラウマとは命に関わることに遭遇するとなるそうだが、子供にはこんなことでも命がけに思われるのだ。私は中年以上の男性に今でも恐怖を感じる。自分がその歳になったのにだ。何を言われるのか、どんな態度で接してよいのか戦々恐々である。臆病といわれても仕方が無いが。


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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 序章-4 [思い出]

私は母乳と言うものを飲んだことが無い。母親は勿論、乳母なんてものは居ない。当時、その家の南側に国立の畜産試験場があった。鶏や牛、山羊、馬、アヒル、豚などの生体実験場である。
その夫婦も一時そこで働いていた関係で、試験場の知り合いから牛の乳を貰ってきて私に飲ませた。そんな意味で母の味を私は知らない。

とにかく、その夫婦は私を生かさなければならないことに、特に母親の方は必死だった。亡くしたばかりの子の面影をダブらせていたのかもしれない。夜泣きが激しく、衰弱の一方だった赤ん坊を一晩中寝ずの看病をしていたようだ。何日も、何ヶ月も。

本当の母親は一月に一度様子を見に来るが、一時間も居れば良いほうで、預けっ放し状態。だから、いまだに母の愛情も、勿論父親の愛情も知らない。父親の方は顔も覚えていないのは当然のことだ。
私が感じているのは「育ての親の愛情」なのだ。

物心ついてからも、その夫婦を「お父さん」「お母さん」とは呼ばなかった。と言うよりはその人達が呼ばせなかった、と言うほうが正しいかもしれない。そこのところははっきりしていた。「お前は他所の子だから」という育て方を最後まで貫いたのだ。
その代わりに「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼んだ。孫が居たのだから、それでよいのだが、当時まだ40代後半の夫婦である。何番目かの子供ならまだ居てもおかしくはない。しかしそれがその二人にとってのケジメだったのだ。いくら情をうつしても「預かった子供だ」と自分たちにも言い聞かせていたのだろう。

私の名前は大嶋 修。兄は学、ちなみにある事情(後述)で生まれた弟は実、ガクをオサメてミノル。と神社の神主につけてもらったらしい。父は…どうでもよい、母は君代である。幼い時は「おかあちゃん」と呼んでいた記憶がある。
私が預けられた先の夫婦は黒川 夏造・みき、最初(序章-1)に書いた「夏江おばさん」とは二人の娘で父親の名前を一字をとって命名したらしい。

今では皆、逝ってしまった。本当の母親が「夢」に出てこなかった…私は現在55歳である。妻帯者であり、娘も一人いる。波乱万丈とは行かないが、記憶の隅に眠っている出来事を少し掘り起こして見たいと思う。

※このブログの書き込みの殆どはノンフィクションであります。私の記憶が交錯して時代や日時の取違いがあるかも知れませんが。但し、登場する人物については今後の個人に対する迷惑を考え、仮名を使わせいてただいております。一部上記のような名前の謂れなどは仮名であっても話の筋としては事実であります。
※但し、Photoは当時の実際のものと、イメージとしてフリー画像を処理して使用おります。

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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 序章-3 [思い出]

昭和26年と言えば、終戦からようやく立ち直り始めた時代だ。それまでは戦争で両親を失ったり、行方知れずになった家族もいたが、その年に生まれた者にとっては当然両親は揃っているはずであるが…
私はその年に産声を上げた。父は居ない。親は離別である。何年夫婦を続けたのかは知らない。いわゆる片親である。その当時の風潮としては白い目で見られることが多かった。

両親が離婚したのは私が生まれてわずか2か月後のことであった。段々良い時代に向かいつつはあったが、食糧事情は今一歩だったらしい。私は栄養失調で、3ヶ月経っても首が据わらない、ひよわな赤ん坊だったと聞いている。

別れの理由は父親の女にだらしの無い性格と、大酒呑みの酒乱とくれば男としてはほぼ失格である。ほぼとは、仕事ができればまだ救いもあるだろうが、代議士の秘書をしていて「使い込み」、危うく警察沙汰になるところを本家の援助で示談のために、当時としては金より大切な「米」で解決したのである。以後親戚との付き合いも絶たれ、母親は当然のように離婚を選んだ。
余談だが、私には何人の異母兄弟がいるか、いまだに分からない。それほど父親は女好きだったらしい。

残った子供は悲惨だ。兄が一人いた。三つ違いだ。当時は別れたからといって養育費だの、慰謝料なんて話は無かったようだ。一銭も貰わず子供を育てるには困難な時代だった。女性が正当な稼ぎをする職場、しかも子持ちで手に職が無い人間にとっては皆無だった。
なので、残念ながら私はどちらの両親とも暮らすことが出来なかった。

親戚とも断絶状態になった母親は、二人を連れて育ててくれる他人を探した。当然のごとく、そんな時代においそれと、引き受けてくれるお人好しが居るはずが無い。しかし、捨てる神あれば拾う神ありだ。
引き受けても良いと言う夫婦が現れた。決して裕福ではない。はっきり言えば貧乏人である。それなのになぜ? 数十年後、聞いた話によると、その二人の間の子供が亡くなってしまった。精神的にもダメージを受けていたその母親のために代わりの生活の意義を見つけていたのだ。それが結果的に子供を預かるということになった。

兄と二人が連れて行かれたが、一人しか受け入れてくれないという。当たり前だ。いっぺんに二人を育てられる経済的な余裕のある家ではないのは現在の私がその頃の事情を聞いただけでも分かる。
二人のどちらかを選ぶことになって、生まれて直ぐの子であることと、見てくれが良かった(と聞いたことがある)、私に決まった。兄は父親方の親戚に引き取られることになった。
ここで人生が決まったのかもしれない。何故父方は二人を引き取ってくれなかったのだろう。父の実家は漁と観光の町で大きな旅館を営んでいる比較的裕福な家である。他人の家で育てられるよりはマシだろう。母親が二人とも子供を取られるのを嫌ったのかも知れない。せめて一人はと考えたのだろう。もしかしたら意地だったのか。

そんな意地で引き取った私(もしかしたら兄かもしれなかった)を、育てられないのなら何で施設に入れなかったか不思議でならない。今となっては推測でしかないが、他人と言えども夫婦に育てられることがせめてもの「母の情け」だったのか。彼女はその足で水商売に身を置くことになった。物心ついた私には分からない遠いところで。

運良くと言うか、その預けられた夫婦の家の隣が市立の病院であった。そこの院長曰く「この子を預かるのか? 葬式を出すことになるぞ」と言われたそうだ。それほど弱っていたらしい。その日から育ての親は、私のために隣との往復を始めたのである。


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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 序章-2 [思い出]

どこだぁ! 周りを見渡しても、ひっそりと静まり返ったこの場所。逃げ出したくなる。いや、誰かと会いたくて孤独感に苛まれている感じだ。探し出そう。

不安と好奇心で、私は部屋へと通じる石段を一気に駆け上り廊下を走り、茶の間から何枚もの襖を開けて、次々と中を確かめた。いくらどこを探しても私一人きりだ。だからといって自分自身が見えるわけではない。私は目だ。映っているものを認識しているにすぎないのだ。何か変だ。何か…

何故か最後と分かる扉を開けると「明日香」がこちらをジーって見ている。浴衣姿だ。今は笑顔もない。一人っきりだ。しかも一筋の涙が彼女の頬を伝っていく。どうしたのだろう。私は少しずつゆっくりと近づいて行った。また逃げられてしまうのが恐かったのだ。彼女を抱きしめようとした瞬間…

頭の上でけたたましい、今度は現実的な音がした。目覚まし時計だ。今の状況が把握出来ない、放心状態の私がいる。段々覚醒していく…と、私は理解した。ボワンとした感じと妙にリアルな夢であった。「何かオカシイ」と思ったのは幼馴染みの「明日香」以外、皆今は居ない、つまり亡くなった人達が出てきた。それも何十年前にさかのぼった、しかし全員が一番その時代にシッカリと生きていた若々しさなのだ。明日香は勿論、現在は少女ではない。出てきた人達と共に年月が昔にスライドしている。幼い頃の明日香に。

私はといえば精神的には今の歳なのだが、夢の中では自然であるかのように子供を演じていた。分かっているはずの記憶をわざと押さえ込んで。そうして、それが当たり前と思い込んでいた。今日は休日、何もすることはない。急ぐことはないのだ。ゆっくり今の余韻を楽しんでいる。何か切ないような、懐かしいような、それでいて皆に会えた嬉しさを…少し目頭が潤んでくる。

このブログに書こうと決めた瞬間だ。「思い出を」。
タイトルは遠い未来の願望(夢)ではなく、眠りの中で揺れ動く(過去の)夢のように、蜃気楼が私の頭の中をよぎるような、思い出がうごめいている心の葛藤を表したものだ。[あえぐ夢]の始まりだ。


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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 序章-1 [思い出]

目の前が真っ白だ。朝靄がかかったように。何も分からないまま、黙々と前へ進んでいく。暫くすると少しずつ、その中にうっすらトタンの垣根で囲まれている家が見えてきた。小さな平屋造りだろう。低い屋根だけが見える。真ん中あたりに、木の合わせ目がずれてしまい、中が覗けてしまう、今にも壊れそうな引き戸の門がそこに現れた。その門の左、一間半ほどのところに人影が…目を凝らして見ると、女の子が立っている。おかっぱ頭の可愛い子だ。短いスカート、指を口に銜えてこちらをじっと見ている。

私が近寄ろうとした途端、彼女はその家の門に駆け込んだ。素早かった。私は追いかけた、門に向かって。吸い込まれるように。
「待って」と言いたかった、だが心の中で叫んでいるだけのようだ。自分で発している声が聞こえないし、私自身の体は見えていない。丁度カメラのファインダーを覗くように移動している。

次の瞬間、シーンが変わってしまった。床がスノコだ。大分時間が経ったそれは端にコケが生えているように見え、ヌラヌラと光っている。視線が上がってゆく。私は風呂場にいた。湯気が凄い。透明な湯の中に先ほどの女の子が入っている。あちら側の淵に腕を掛けて私を見て笑っているのだ。「明日香!」そう、私の幼馴染みの。湯の中で足をばたつかせ片手を伸ばした。その方向から視界に女性が入ってきた。
豊満な乳房とビーナスのように女特有の尻から足のふくらみが眩しい。裸だ。彼女も風呂に身を沈めた。明日香の母親、「夏江おばさん」だ。二人で戯れている。ついたてもないその場所は右を見ると土間と繋がっていて、かまどからも湯気が立っている。手ぬぐいを姐さんかぶりした「ばあちゃん」が夕方の飯の支度をしているところらしい。背中を見せているのに誰だかが分かる。

風呂の先を見ると窓、外には木戸が見え、今まさにそこを開けて「じいちゃん」が帰って来た。昔の荷台が大きい重そうな自転車を引っ張って庭に止めている。後ろからは「博おじさん」が続いて入ってきた。皆揃ったのか、一同で笑っている。音は聞こえなかった。
ひときわ大きな声で笑った気がして風呂場から、かまどのほうへと振り返った。誰もいなかった。再び木戸から続く家への入り口を見るとそこにも誰もいなかった。景色がグルグルと回る。誰もいない。皆、掻き消えてしまった…どこに。


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