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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-13 [思い出]

人間は望まれて生まれ来る者と、仕方なしにこの世に出てくる奴がいる。それが裕福だとか貧乏だからとかは関係なく。 よくテレビで「親は皆、誰でも自分の子供が生まれてくるのを待焦がれている」とか「子供に差別なんか無い、皆可愛いのだ」などと理屈を言う評論家もいるが、それは違う。捨てられる子供もいれば、虐待を受けて殺されてしまう子もいる。

人間が皆、平等ならば世界の紛争地帯で被爆したり、親を殺されて餓死寸前で未来の無い、そんな子供は居ないのではないか。

私は親や兄弟からの愛情を奪われた人間だ。代わりの愛情を与えられたのかも知れないが、それは大人ならわかるかも知れないが、預けられ育てられると言う本物ではない代償の愛だ。しかし、子供心にそれでもいい、少しの間でもそんな情が欲しいと思うときもある。

秋も冬に向かって時々寒くなってきた頃、黒川家の長女である「夏江おばさん」がやってきた。 何故か明日香や勲は一緒ではなかった。一人でだ。何しに来たのかは解らない。法事とか、大事な用事なのだろう。子供二人を家に置いて出てくるのだから。 毎回来るように賑やかでもないし、私もはしゃいではいない。そんな雰囲気ではないように記憶している。

そして、たった一日ではあるが夏江おばさんは我が家「黒川家」へ泊まっていった。 この家、人が頻繁に来る割には家は狭い。当時は平屋の三間だ。茶の間と寝室、それに客間である。 普段なら子供たちが来るので客間(人が来るとそこが宴会場になる)に明子おねえちゃんと山部一家が寝ることになる。 が、この時はどういうわけか、寝室に(と言っても8畳の和室)川の字におじいちゃん、おばあちゃんと並んで寝ることになった。私はおばあちゃんと夏江おばさんの間に小さくなって眠ることになった。少し狭い。

この家は夜中になると静寂に包まれる。周りに何も無いのだから当たり前だが、遠くで汽車が走る音が聞こえたり、野犬の遠吠えがしたり夏江おばさんは静か過ぎて眠れないなんて言っていた。 タダ一つのことを抜かせばであるが… 隣が市立病院、少しはなれて大学病院と言うことは再三書いてきたが、それがあることを忘れてはならない。救急車が来るのだ。静か過ぎる空気を切り裂いて、今度は飛び起きんばかりに凄い音で通り過ぎていく。いや、私たちはもう慣れている。 しかし、たまに来て泊まる人たちはビックリするのだろう。静か過ぎるが煩かったに変わるのだ。耳を澄ませばそのサイレンが(当時はウーである、今のピーポーのような優しい音ではない)どちらの病院へ入るかがその音で分かるくらい毎日のことなので当たり前の生活だ。

その日も何回かサイレンが鳴ってから私は眠りについた。 晩秋だが、少し暑かったのかもしれない。私は布団をはだけて寝ていたらしい。最初に気が付いたのは優しく掛け布団をかけてくれる感触で眠りが浅くなった。おばあちゃんではない。この人の場合はバサッである。「ほら、チャント掛けて寝ろ」なんていいながら。今回の場合はソーッとである。やはり眠れないのであろう。深夜に私のことを気遣ってくれたのだから。と言うか、二人の子供を育てているのだからそんな習慣があるのかもしれない。

夜も終わり頃、外が明るくなり始めていた。遠くで雀が鳴き始めている。ふっと薄目が開いた。 私は夏江おばさんにピッタリ寄り添っていた。寝返りを打っておばさんの方へ転がって行ってしまったのだ。 幼い心で、私は思った。「いけない、この人は他所の人だ」。慌てて逆の方へ転がって寝返りを打った。小さく縮こまりながら。朝方は寒くなってくる季節だ。冷えたので温もりを探しているのだろうかとも思った。だが、布団を掛ければよいことなのだ。 何分経っただろう。気が着いた時にはまた、スッポリとおばさんに寄り添ってしまったのだ。「明日香のおかあさんだ」と言う気持ちが私をもう一度行動させた。自分の寝床に戻ろうと。 3回目に目を開けた時には夏江おばさんが私の背中に手を回して抱いていてくれた。温かかった。女の人の…と言うより、お母さんの胸の中のようだった。そして心地よくまた眠りについた。一時の幸せを噛み締めながら。

私は親の懐で寝たことは一度も無い。おそらく潜在意識か動物的本能で母親を求めたのかもしれない。懐かしいような、それでいて今までに感じたことの無い感覚だったことを覚えている。胸に顔を埋めて思いっきり甘えてみたい、と日頃からの願望が出た夜だったのだ。そして、叶った。一度だけ。

その日から、「夏江おばさん」は私の憧れの人となった。愛とか恋ではないが、何か淡い・いとおしい気持ちでその人を見るようになった。 そういえばこの人は私の前で怒った顔や態度を見せたことが無かった。多分おじいちゃんの温和な性格を継いだのだろう。

最初に書いたように代償の愛にしても、黒川の夫婦は私に対して充分な躾と教育は施してくれた。それは一生を掛けて感謝することなのだが、その一方で「お前は他所の子だ」と言うことは、特におばあちゃんがケジメをつけていた。怒られて泣いたことはあっても彼女の前で、寂しいからとか親の愛が欲しいからと涙を見せたことは覚えていない。甘えられないことを子供心に感じていたのだろう。

だからこそ、あの夜のあの甘えさせてくれた、「代わり」ではあるけれど私の気持ちを分かってくれたおばさんの「母の優しさ」を今でも覚えているのだ。

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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-12 [思い出]

昭和31年の秋には二つのエピソードがあった。何故、秋を覚えているかと言えば、きのこ狩りと栗拾いに行ったことを思い出したからである。

我が家は西側の街から急な坂を上がってきた高台にあった。近頃では「山の手」と言われているが、当時は「山の上」だ。この市内では海抜が一番高い。どこから来ても坂ばかりである。

坂の頂上に大学附属の病院、1kmくらい離れて市立病院そして隣が黒川家に牛屋。その向かいは全て見渡す限り畜産試験場と言うことだ。家の前は畑、その先に牧草地。村に向かう道が東に延びており、畑の隅に林がある。農家が一件、ゆるい坂の上には火葬場がある。更にその先には森と雑木林が点々と散らばりその森などで、春は竹の子や蕨、ゼンマイ、蕗、いわゆる山菜狩りである。
森から森へと渡ってゆく。

二つ目の森にさしかかった。同行したのは黒川のおじいちゃんとおばあちゃん、それにその親戚の大人、三人と私だ。皆、獲物を探しなからゆっくりと歩くが、私はタダの物見遊山なので先頭を歩くことになる。それでも笹を折ったりして刀の代わり…などと遊びながら森の奥へ。かなり先へ来てしまった。一人ぼっちになった。森の中でザザザッと枝葉の風で擦れ合う音が妙に大きい。
フッと上を見た。ギシギシと他とは違う物音が聞こえたからだ。ぶら下がってる。そんな感じの印象だ。靴を履いた足が伸びていた。湿っぽさが辺りを漂っている。もっと上を見ると逆光で木々の葉っぱが暗さを増した中で人間の上半身が見えた。地面は明るいのだが、上は薄暗いのでその人の顔は見えない。ゆっくりとその人は揺れている。力が抜けたように。首から紐が伸びている。

私にとってそれだけの情景だった。でも、何か不気味な感じがしたのだろう。引き返した。おじいちゃんのところへ。「人がぶら下がってるよ」と言う私の言葉におじいちゃんは最初、誰かが枝払いをしているか、遊んでいるのかと思ったらしい。「動かないよ」…少しの間、私をじっと見て何か考えているようだった…「どこだ、連れて行け」、その言葉に緊迫感が感じられた。この時代、生活苦のために自分で命を絶つものが珍しくなかった。今のように福祉がシッカリしてはいないからだ。
手を引っ張って先ほどの場所へ行く。他のものも駆け寄ってくる。皆で見上げていたことを記憶している。その後は何故か栗拾いは中止になった。
今思えば当たり前だ。「首吊り」現場を発見してしまったのだから警察に通報、事情聴取、散策は出来ない。第一発見者は私だが、子供なので経緯は聞かれなかった。
ただその人の足だけが印象に残った。今でも目を瞑ればその場面だけは焼きついている。

数週間後、うちの家族は懲りもせず再び山菜狩りに森に向かった。但しルートは変えていた。大人になるほど「その場所」には行きたがらないのだ。そこで私にとって第二の事件が起こった。
皆で登っている。急な傾斜だった。得てしてこんなところに大きめな美味しいきのこが生えているのだ。横に広がって、私も踏ん張って登っていた。あと一息で上まで登りつくところで、私は腕を伸ばして崖の淵に手をかけた。足を一歩踏み出し、両腕に力を込めて上へせり出そうとした途端、私の二の腕が鳴った。何が起こったかわからなかったが、ずるずると落ちていく。両腕がブラブラになって…そのうちぐるぐる回りながら窪んでいるところで止まった。「シュウ!」とおじいちゃんの声、手に力が入らない。と言うより、痛い! 次第に激しくなってくる。
おじいちゃんが駆け寄ってくる。抱きかかえられる私。泣いている自分がいる。腕が動かない、痛いから動かせないのかも知れない。
急いでそのまま病院へ担ぎ込まれる。隣の私立病院へ。そこまでの道のりは長かった。当時は携帯電話は勿論無い。こんな山の中では公衆電話も無いので救急車を呼ぶのは不可能だ。
結局、おじいちゃんが抱えたまま医者のところへ駆け込んだ。両腕脱臼だった。手で踏ん張っただけで私は自身の体を支えられなかった。

序章で書いたように、私は栄養失調で危ない状態で引き取られている。何とか丈夫になり、外見は5才の男児になったといっても、こんなところに弱さが秘められていた。これによって、2回目の山菜取りも途中で中断してしまった。この年、栗やキノコは食べられなかった。
2度とも私が原因である。「首吊り」を見つけなかったら、「脱臼」にならなかったら。事実の思い出なんてこんなものだ。子供の頃の記憶は余計に感情よりも経緯でしかない。起伏の無い、つまらない話だ。


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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-11 [思い出]

黒川家には、良く人が集まる。昼間から夜まで…
これも、おばあちゃんの人徳? なのか。殆ど毎日誰かが顔を見せる。
仕事師と呼ばれる、大工・鳶・左官屋などのほか、農業を営む人たち、もちろん婦人会の面々。はては、御用聞きの酒屋や米屋もクリーニング屋まで。玄関は土間と板張りの上がり口だ、そこに座り込んで小一時間は話をして行く。
お茶を出し、菓子を出す。菓子が無ければキュウリや白菜の漬物だ。

なので、我が家は菓子類が絶えたことが無い。といっても私が自由に食べられる訳ではない。
黒川家は戦争中に軍隊の賄をやっていたと言う。試験場に駐屯していた陸軍の兵隊たちの飯の支度だ。家には引っ切り無しに人の出入りがあった。代わりに当時としては手に入りにくい白い米や肉・魚類にありつけたのだが、そのときの癖が抜けきれないのか、みきばあさんは誰か知り合いが通るたびに声をかける習性があった。点在しているこの先の村に行く休憩地のようになっていた。
もしかしたら、このばあさん一人ではいられない寂しい人なのかもしれない。

夜になると試験場の男たちや、年頃の娘である「明子おねえちゃん」の男友達などで酒盛りが始まる。これは毎日とは言わないまでも週に2回くらいは、私が眠れない夜になる。一緒に付き合わされるからだ。5歳の子供には余り健康的に良くないなんて、大人は酒が入れば関係ない。
隣の牛屋(前々回登場の中村牧場をそう言った)以外に回りは家が無いのだからドンチャン騒ぎをしても咎められない。今なら即、騒音防止条例で警察に通報だ。

おじいちゃんは下戸だ。そんな夜にどうしていたのかは、幼すぎて忘れてしまった。多分同席していたとは思うが…

そんなメンバーの中に、ガソリンスタンドに勤める人がいた。この人も昔、この夫婦に世話になっているらしい。時々ご機嫌伺いに来る。ちょっとした美男子である。ポマードで髪を固めたリーゼント、額にパラッと落ちた数本の髪の毛は流行っていたのか、当時としてはステイタスである車の燃料スタンドは今のように、そこいら中にある施設ではなかったので、花形職業なのだ。
その人がある日、サングラスをかけてオートバイで遊びに来た。これに私はまいった。格好が良いのだ。勿論、ヘルメットなど装着する義務がある時代ではない。
そして始めてみるバイク。今思えば125ccくらいの小型車なのだが、そのときは大きく見えた。当時流行った左右に張り出したサイドバンパーを前後につけていたと思う(これは転倒した時に車体のダメージを防ぐ役目がある)。真っ黒で重厚感のある奴だ。

その人(名前は忘れた)が言った。「シュウ、乗せてやろうか」。私は耳を疑った。
こんな凄いものに乗せて貰えるのかと。正直、私は怖かった。体験したことの無い乗り物。しかも2輪で不安定、凄い音がする。自転車もまだ乗ったことの無いものがバイクの後ろに乗るのは体験した人は分かると思う。しかし、好奇心が勝った。『ウン!』と答えた。
実は明日香の父親(裕次郎)もオートバイには乗っていたらしい。残念ながらそれには乗せてもらえなかった(4才や5才の子供を後ろに乗せるのも無謀だとは思うが)。

早速、後ろへ跨った。足が一杯に広がってしまう。街中を走っている昔のオートバイは主に運搬用である。助手席シートなどは点いていない。荷台に座布団を敷いて紐で縛る、運転手にしがみつく。
いや、最初は気楽に手を添えていただけだったが、直後にバイクの怖さが分かった。バスにしか乗ったことの無い子供には、その加速力たるや恐怖である。まして、それは傾く! 私も一緒に傾かされる。落ちそうになる。実際は遠心力で落ちはしない。
その人も5歳の子供を乗せて大人げない。多分フルスピードだったと思う。石ころだらけの未舗装道路を転んだらどうするきなのだろうか。どこに連れて行かれるのかも不安の一因だ。

ところが、20分も走った頃か、私の中に何か不思議な気持ちが沸いてきた。風の中を切り裂く爽快感、耳に響くオートバイの轟音が心地よいメロディーに変わってきた。傾くほどにスーッとした達成感みたいなものが…
アトはもうその走りに魅せられた私がいた。景色が後ろへと飛んでいく。運転手の脇の間から覗いている私の目に、道の線に沿ってトレースを描きカーブに飛び込む心地よい風景が見える。その瞬間「ファッ』とした感覚。「凄い!」こんな気持ちのよいことがあるんだ。
この人、未舗装のデコボコ道路をカウンターを当てながら、スムーズに走る。相当運転が上手かったのだろう。家に帰って来たとき、私は酔っていた。車酔いではない。「今度は自分で運転したい」と。残念ながら足も届かないそれを、まして幼い子供に運転させてくれる訳が無い。「いつかは乗るぞ」と心の中で呟いた。

私は16才になると同時に運転免許を取った。そうして今までに5台のオートバイを乗り継いだ。大きいものからカブまで。この時の感覚が忘れなれなかったことが起因している。もし、5才の時の体験が無かったら、オートバイには乗っていなかったかもしれない。

そろそろ秋も近づいた衝撃的な一日であった。

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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-10 [思い出]

相変わらず暑い、生まれて5回目の夏だ。私は懲りもせず道路に水撒きをさせられていた。遠くに陽炎が揺らいでいる。車なんて一時間に2台も通れば多いほうだ。熱風が時々吹いてくる。 それでも周りの景色は少し変わっていた。家が数件新築で建っている。後はまだまだ畑、遠くには林と萱葺き屋根の農家がある。

遠くに小さな黒い人影が見えた。街のほうからこちらに向かってくる。私は水の入っているバケツを持ったまま、その人を見ていた。黒い大きな木の箱を括り付けている荷車を引っ張っている。ガラッ、ガラッと一歩ずつ、一心不乱に…男の人だ、小柄だがガッシリした体格。段々近づいてくると顔も見えてきた。赤銅色で汗に光っている顔。初老に近いその人を私は知っていた。

前にも記したとおり黒川のおばあちゃんは顔の広い人である。いや、社交的な人といったほうが良い。 たとえば、バスを待って停留所に10分知らない人と一緒にいると乗った時には友達になっている。女性が子供を連れていれば5分とかからない。昔の人は言葉をかけられて「変な人」とは思わない。ニコニコしながら『可愛いわね、いくつなのかな?」なんていわれると、もう次から次へと会話が弾んでしまう。男の人にしたって「どこまでですか」とか、「暑いわねぇ」と会釈をしてキッカケを作ってしまう。 なので、この辺で黒川のおばあちゃんを知らない人はよそ者である。

荷車を一生懸命、汗の滴るのも気にせず、ランニング(今で言うタンクトップの下着版)姿で車を引いているその男も普段から良く家に来ている人だ。かなり重そうで、そのランニングも汗でピッタリ体に張り付いている。道は石ころだらけで真っ直ぐは進まない、一歩足を出すたびに左右に振られながら、それでもひたすら前へ進む。厳しい日差しの中をだ。

我が家(黒川家)から50mくらい台(田舎ではデェと呼んだ高い地域)の方へ向かうと、登り坂がある。そんなにきつくは無いが未舗装のそこを、重い荷車を引っ張るのは大変だ。私は手伝おうとバケツを置き、道の向こうへ走りよって、後ろからそれを押し始めた。なるべく人家の反対側を通るのだ。迷惑にならないと言うように。

「坊や、いいよぉ」と言う声が聞こえた。「上まで押すぅ」と私、たかが5歳の子が手を貸しても軽くなるわけではないが、それでも力いっぱい踏ん張った。途中、足元の悪い石に滑りながら。何度も「いいよぉ」といわれたが、とうとう坂の上まで登りきった。荷車を止め、腰に下げた手ぬぐいで汗を拭きながら、嬉しそうにその黒い箱の後ろに回ってきて「ありがとう、でも二度と手伝うんじゃあないよ」といわれた。私は別れの言葉を言った「またね、火葬場のおじちゃん」。

その当時としても余り憧れられる仕事ではない。荷車に黒い箱、昔この周辺では火葬場が転々と移転していた。理由は大学病院だ。近くに住んでいる人は余り好まない場所だ。なので、周りに家が立ち始めると別の人家が無い場所に移る。しかし、今のように車の発達していない時代、病院からそう遠くへは移れない。家族のもとで葬式を出す時には霊柩車があるのだがそれなりに金がかかる。身元のわからない人や、自殺して解剖に回された遺体、犯罪に関係したりして死亡した人、伝染病などで家に連れて帰れない人は直接荼毘にふされる。そんな遺体は密かに火葬場へと運ばれた。黒い箱の中には亡骸が入っていたのだ。

丁度、我が家の先150m程に当時の火葬場はあった。一日に何回も往復する姿を見たことがあったが、その中に何が入っているかは小学校まで判らなかった。病院へ行く時は軽そうに、帰りは酷く重そうだったことを覚えている。 たとえ判ったとしても、手伝ったに違いない。当時その広い場所に一人、遊びに行っていたからだ。友達は怖がって行かない。つまり、私は死に対してそれほどの恐怖心とか、嫌悪感とかは持っていなかった。そのカマの前で「火葬場のおばちゃん」と一緒に笑いながら遊んでいた。遺族が待合室でこちらを見て不思議そうにしていたに違いない。 もちろん、黒川のおばあちゃんの友達でもある。

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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-9 [思い出]

まだ、団扇しかない我が家にとって、夏の涼を取るには井戸に冷やしたスイカやアイスキャンディーを売りに来ると家族中でしゃぶっていた記憶がある。冷蔵庫も氷を入れる小さな箱はあったが、それも時々しか売りに来ない氷屋が頼り。暑いと繁盛するのだろう。あまり顔を見せない。冷たいものがのみたい! そんな気持ちがさせた思い出… 

 

 一つ書き忘れていたのだが、隣に家がある。今で言えば隣家があるのは当たり前、でも、昔は点在と言う表現でしか隣続きの家は無かった。唯一我が家のお隣さんだ。しかも多分に広い。だからと言って、立派なわけではない。「中村牧場」と銘打った看板が入り口にある。広いのは牛を飼っているからだ。手前に住居、先に牛舎がある。なので年がら年中、我が家(黒川家)は獣臭い…汚物の臭いが立ち込めていた。しかし人間は慣れる。毎日そこに居れば、それが普通になるから不思議だ。
そうして、私は良く隣の家に遊びに行った。子供はいない。当時はまだ中年夫婦とその息子たちだが、私にとっては大人ばかりで牧場の経営をしていたように記憶する。現在のように人の家に立ち入ってはいけないとか、研究所や試験場に入るには許可がいるなんてまるで無い、のんきな時代だ。当然のように出入りしていた私には、隣も牛や家人と接する気軽な遊び場だったのだ。だからこそ当たり前にそこにある隣家を思い出せないでいたのかもしれない。

牛はおとなしい動物だ。しかし、何かの拍子に怒る。角で引っ掛けられたりすることもある。牛舎には真ん中に通り道があり、両側に牛が入った柵がある。人間が通る時に機嫌が悪いと怪我をする。逆に慣れてしまうと、あの唾液の舌でなめられる。
どちらにしても、あまり嬉しいことではなかった。なのに何故遊びに行くのか…それは餌にする藁が気持ちが良く、それを山積にして保管してある。私はそこで、今で言うトランポリンのように飛び跳ねて遊んでいた。勿論、誰にも怒られはしない。実に鷹揚だ。しかし、その場所は牛舎の一番奥にある。あの恐怖の通り道を行かなければならない。両側から魔物の目が光る。ソーッと忍び足で歩くのだ。驚かせたら柱に突進してくることもある。大人から見ればたいしたことではないのかもしれないが、5歳の子供には山のように大きい猛獣だ。
その恐怖心も一つの遊びにはなっていたのかもしれない。ひと遊びすると牛乳を出してくれる。ここに飼われている牛は全て乳牛である。コップ一杯のこの冷たそうな牛の乳(本当に絞りたては生暖かいのだ)が後で大変なことになる。弱いとされている私のお腹に悪い影響が出たのだ。飲みなれていない人(大人でも)が、生の牛乳を飲んだら腹を壊すことがある。だから隣で貰った乳は、我が家では必ず火に通してから飲むのが慣例だった。

しかし、その場で飲ませてくれると言うのに断るわけにも行かない。それも冷やされていて美味そう…その夜、私は隣の病院へ運ばれた。下痢と嘔吐である。急性腸炎! 数日間苦しんだ後、おばあちゃんにきつく怒られた。以来「隣で飲み物をもらわない」と言う規則が我が家に出来た。更に今日まで私は牛乳が飲めなくなった。スーパーで売っている滅菌した牛乳でも。

その家には五右衛門風呂なるものがあった。土間の真ん中に鎮座している大きな釜だ。中はそのままの鉄の底だけである。「修(オサムだがシュウと呼ばれていた)ちゃん、暑いからお風呂で汗を流して行かない?」。私は普通の風呂だと思って思わず「うん」と言ってしまった。そこにある釜が風呂になるとは思っていなかったのだ。
下からドンドン火をくべる。沸いたところで、裸になる。次にすることは下駄を履くことだ(スノコを敷いて入るところもある)。そのままお湯に浸かれば足をやけどする。変な感覚だ。しかも深い。そこの「お兄ちゃん」と一緒だったからよいものの、私は茹でられるかと思った。溺れかけたり、下駄が脱げたりで大騒ぎである。だからと言って淵に掴まれば更に熱い。子供にとっては正に地獄の釜に思えた。

現在のようにプールも近くに無い、しかも泳ぎも知らない私にとっての初めての体験である。

ちなみに、この地域では氷屋とアイスキャンディー売りが「カラン、カラン」と鐘をならして、納豆屋と豆腐屋が「ぴーぷー」とラッパを吹き、パン屋がチャイム、魚屋は…時間になると毎日同じ場所にやって来た。野菜は毎朝、農家から直接リヤカーで街まで売りに行く途中に家の前を通るので、声をかける。そんな日常だ。



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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-8 [思い出]

私が次に目をつけた遊びは「自転車」だった。周囲の子供たち、特に男の子は皆、これに夢中になっていた。私はといえば勿論、子供用自転車など買ってはくれはしない、贅沢品である。他の子供たちが乗っているのを、ただ観ているだけである。「貸して」といってもその時代では高価な代物だ。乗ったことの無い私に貸して傷でもつけられてはと、誰も乗せてはくれなかった…と言うか、私は親がいない特殊な子供として見られていたのかもしれない。
いや、同世代にではなく、その親たちに。余り関わらせたくない友達だったのだろう。結局その歳では自転車に乗ることは出来なかった。

しかし、子供同士は関係ない。自転車は駄目だとしても、紙で折った飛行機を飛ばして競争したり、当時流行った「鞍馬天狗」の真似をして風呂敷をかぶり「チャンバラ」や、勿論、木登りも根城作りもやった。
ある時、友達は皆、幼稚園へ。私は一人で基地を作ろうと森の中を物色していた。枝の上に板を渡して棲家にする、形の良い木を探して。一時間くらい林の中を徘徊して、丁度良い枝振りの木を見つけた。早速、私は登り始めた。当時の記憶では相当大きい木だったかもしれないが、今思えば5歳の子供が登れる位のものだ。たいした高さではないだろう。途中Yの字に二股に分かれた枝があった。
そこに足をかけて更に上へ登ろうとした時に悲劇は起こった。挟まってしまったのだ。靴が取れない。しがみついている腕の力も疲れてきて、とうとう手を離してしまった。足だけで支えられている「宙ぶらりん」の状態だ。周りには助けてもらう人もいない。友達がいれば大人を呼びに言ってもらうのだが…どのくらい経っただろう、苦しくてもがいていた。段々、息が出来なくなって頭がクラクラしてきた。多分そのまま気を失ったのだろう…

気が付いた時には草の上に寝せられていた。目を開けると男の人が私の顔を覗いている。運良く枝払いにきた山の持ち主に見つけられたのだ。宙に浮いた子供を。それ以上時間が経過したら、私は今頃脳に障害が出ているかもしれない。もしかしたら死んでいたのかも。赤ん坊の時の栄養失調と、この時で2回目の危機が回避された。一人ぼっちが招いた事故ではあるが、そのことは帰っても親には言わなかった。今回が初めての告白である。何故なら本当のことを言って、一人で遊びに行かせてもらえなくなるのが恐かったからだ。
私は一人ぼっちは好きだが、除け者は嫌いだ! 外へ出られなくなったら誰にも相手にされなくなることが不安だった。

黒川家の親は街へ出るのが好きである。特におばあちゃんのほうは、社交的で街までの行きに歩いてゆくのは知り合いの家を転々と寄りながら、果ては途中の目的ではない商店やデパートなどで話し込むのが恒例だった。勿論、私もそれに同行する。しかし、大人の話が判るわけもなく、ひたすら終わるのを待っている、退屈した時間だ。唯一、一緒に行って楽しみなのは食堂へ入って普段は口にすることの無い「ソフトクリーム」とか、チャーハンなどを食べられること。帰りに太鼓焼きを土産に買ってきて頬張ることだ。

その昔(10年一昔と言うがもう四十数年前のことだ)、ここの街は繁華街だった。人は多く、店も繁盛していた。今のように「東京」一極集中型でベットタウンと化した過疎地では無く、地方都市に賑わいのあった時代だ。映画館など娯楽施設が多く(テレビはあるにはあったのかもしれないが、まだ普及しておらずこの地方には街頭テレビも無かった)、遠くからでも汽車に乗ってここ、県庁所在地まで遊びに来る人も多数いたらしい。聞いた話なので「らしい」としか言えないが。

一ヶ月に一回くらい、その映画を見に行く。大人向けの映画に私も連れて行かれるのだ。この市には8箇所の映画館が乱立していた。邦画は全社、洋画館が2箇所、成人向けの昔で言うピンク映画を上映しているところも一箇所あった。

ある日のおばあちゃんとお出かけ、映画館に行ったときのこと。入り口前の看板を仰ぎ見て、私は入りたくなかった。「怪談話」だ。5歳の子供にいくらなんでも酷である。決して臆病ではないと思うが、大人が怖がる映画を見られるわけが無い。
だからと言って、私だけ外で待つことも出来ず…この人、自分が行きたいとか欲しいと思うと、他人のことは考えられなくなる。そんな性格である。

昭和31年も夏のことだ。まだエアコンも普及していない時代、暑い時には怖い映画は定番になっていた。「四谷怪談?」幼い私には良くわからなかったが、とにかく恐ろしい映画だったと記憶している。最初のうちはそれでも画面を見入っていたが、そのウチ目をつむった。それでも音声は聞こえる。耳を押さえ、椅子の背もたれの陰へ身を屈めた。なので結局映画の内容なんて殆どわかっていない。
後から入ってきた人に「ここの席、空いてますか?」と聞かれたが、私が隠れていることを知ると笑いながら立ち去った。こちらは笑い事ではない。後でおばあちゃんに怒られた…「なんて恥ずかしいことをするの」、恥ずかしいことをさせたのは貴女だと今では言ってやりたいが、その時はベソをかいたのを覚えている。怖さより悔しさから。

悪夢の映画館を後にすると、日常の必需品を帰りに買う。一週間分くらいの買いだめだ。幼い私も荷物の割り当ては来る。そのまま駅まで更に歩いてゆく。バスの始発が駅だからだ。駅前には堅牢な建物で商店が立ち並んでいる。おばあちゃんは一生懸命に物色しては買い物に励むが、私にはこれ以上持ち物が多くなる心配だけが先にたつ。
駅前は今も昔も一番の繁華街だ。私は車が好きだが、その当時の夢は「バスの運転手」。そんな光景が沢山見られる、その場所が町へ出た終点になる。そこからボンネットバスに乗って、家まで30分。一番先頭の座席に座って、しかも横座りの席で進行方向の前に向いてかしこまる。丁度、運転手と同じ視点で短い時間を楽しむのだ。勿論、運転手の動作も見逃さない。

ほぼ一日かけたそのイベントの後は疲れて早く眠りにつく、夜中に今日の映画の怖い場面が出てきてうなされるが、美味しかったアイスクリームの夢は見ない。夜のトイレも我慢することになる。

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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-7 [思い出]


※今回の出来事は決して不純な気持ちで書いたものではありません。思い出の一環として通り過ぎてきた私の体験で、忘れることの出来ない心境を文字にしました。嫌悪感をお持ちになられる方はご遠慮ください。


最初は二人で人形を相手に真似事をしていた。何しろ私は隣に市立病院、幼い時から通っていて顔見知りにまでなってしまった医師もいるくらい弱かったのだ。
そこで覚えた診療の様子、聴診器をあてる真似だとか、注射や触診のイメージである。何故か女の子(看護婦さん)と二人、興奮していたのを覚えている。

しかし、それだけでは終わらなかった。やはり本物に越したことは無い。といっても5歳である。児童ポルノばりの性描写が出来るほど知識は無かった。単なる好奇心だ。私は殆どの場合、医者になる。たまには年上の女の子が先生になることもあるが、余り好きではなかった。。

私が患者の場合は下着を下ろされて「つままれる」のが恒例で、やはり女の子には興味があるのだろう。男には象徴が付いているのだから。それでも、暫く撫で擦られていると気持ちがよくなってくる。5歳の子にはこれ以上の感情は無い。年上の女の子にされているという甘い感覚はあったが。。

逆に女の子に対しては、私は想像力を発揮して積極的だった。看護婦さんが患者に早代わりだ。
手を引っ張って横に寝かせる。シャツのボタンを外し、胸をはだけて「トントン」と叩いてみたり、聴診器の真似事で縄跳びの握り部分で聞いている振りをする、いたって幼稚だ。といえども、段々エスカレートしてくる。やはり親父の女好きの血筋がそうさせるのか、しまいにはスカートに手を突っ込み、パンツを降ろさせる。そこにあるものも単なる平べったい、そして真っ白な「おなか」でしかないが、やはり男としての好奇心なのか、夢中になって撫で、さすった思い出がある。

暫くするとウチの中では親に見つかる危険に気づき始めた。やはり幼い心の中でも罪悪感があったのだろうか。外を見渡せば一面、麦畑である。子供二人が寝そべると下界から見えなくなる。良い場所を見つけたものだ。周りに高い建物は無い。麦の穂はスルリと抜け、「チクチク」と刺したり、反対側のストロー部分を差し込んだりと、道具には事欠かなかった。
相手の反応は…残念ながらそこまでの余裕は無い。多分うっすらではあるが上気した顔がそこにあった。私のこの行為は5歳の間、暫く続いた。とにかく片っ端から女の子とこの遊びに興じた。誰とも親に発覚することが無かったのは、皆、興味がありそれが余り健全な遊びではないと思えたからだろう。

私は幼稚園に行っていない。昭和31年だ。周りの子は多分90%の確立で入園しているはずだ。小学校へ入って最初に話題になるのが、「お前、どこの幼稚園だ?」と言う会話だからである。他人の子を金を出してまで通わせるほど人の良い、裕福な親ではないのだ。その代わり人一倍、子供のするぺき仕事を教わったような気がする。それが私のためなのか、自分たちが楽をするためなのかは判らない。タダ、5歳の子供にそれを期待するはずも無く、躾の一環だったのだろう。だから私のこの遊びの相手はおそらく昼間、家にいる残りの10%の中の女の子であったのだろうか。

残念ながら、当時この遊びを明日香とすることは無かった。地理的問題(距離が離れている)だろう、二人がそんな真似をするのは十数年後である。明日香といえばその弟が生まれていた。
名前を勲と言う。子供とは面白いもので、やはりその年ではいくら女の子に興味があるはいえ、相手がいれば男の子の方が気が合う。勲も1歳半になっていた。なので合うたびにこの子と遊びに興じていた。といっても男の子とは「お医者さんごっこ」はしない…

三人(私と山部姉弟)が会うのは年に4回ほどだ。来ることもあれば、行くこともある。都会に近いこちらと、海や山に囲まれた観光地のあちら。その地は明るく眩しい風景しか思い出されない。澄み渡った空気や空を舞う鳥、高い木の垣根、迷路のように回っている道。朝靄の幻想的な風景…でも何故か暗くは無いのだ。朝日が差し込んで来ている様な。きっと私がそこを好きだからだろう。

地元の女の子との「遊び」の記憶はここで途絶えている。周りにも段々家が建ち、人口も増えつつあったその時代、子供達も新たな地に集まってきた。男の子と一緒の時間が多くなって来るにつれ、「楽しい遊び」も消滅していった。今にして思えば残念なことだが、甘い思い出ではある。



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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-6 [思い出]

私の行動範囲は5歳になって少し広がった。とはいっても、子供の足である。20~30分がせいぜいである。相変わらず独り占め(と私は思ったていた)して遊びまわっていた畜産試験場。牧草地もそうだが、特に私のお気に入りは鶏舎だった。


★鶏舎:金網で囲われた庭の部分、左右に小屋がある

鶏を数千羽、一箇所に集めて生態を調べているのだ。とはいっても、今のようなブロイラー的な金儲けの環境ではない。殆ど放し飼いと同じだ。小屋があり、寝床があり、外へ出ると勿論、逃げ出さないように金網はあるが、自由に行動できる庭がある。それが何十区画と立ち並んでいた。
何がお気に入りかといえば、鳥の羽である。鶏も羽が抜け変わる。庭や小屋の中に20cmもある立派なものも落ちている。それを集めて飾りに使うのだ。昔はインディアンなんて良く出てくる絵本や漫画があったのだ。そんな中に綺麗に並べられた羽飾りをつけ、踊っている姿が描かれている。私はそれに魅せられていた。

勿論、一般人は立ち入り禁止である。いくら昔とはいえ、知らない人が簡単に小屋の中などに入れない。以前おじいちゃんがここに勤めていたと紹介した。その繋がりで私はここの職員に可愛がられていた。
「サ、そろそろ取りに行くぞ」なんていわれて、後ろに付いて行く。職員の取りに行くのは羽ではない。卵だ。一日に2回、バケツを持ってそれを集めて回る。これで食品を作る。自分たちが食べる糧にするためではない。研究の一環だ(この場合は乳製品)。造り方を改良して世の中に公表する。今でも稲とか、作物は試験場で開発されたものを農家に広める役割は同じだ。

私は一緒に鶏舎に入ることを許されていた。こちらの目的は「羽」である。その代わり手伝いもした。子供のことなのでそんなには難しいことをするのではない。2回目の卵を収集する為に小屋へ行くのは夕方なのだ。庭で遊んでいる鶏を小屋へと入れることになる。私も一緒になって中に入るように追い立てる。まるで番犬だ。そうしてそれを確認すると境にある扉を閉める。
何故そんなことをするのだろう。夜になると野犬や野良猫が徘徊するのだ。いくら金網に守られているといっても、そこは食料をあさる動物のこと、穴を振ったり金網を壊したりして入る可能性もある。目の前に獲物がいればなおさらのことである。
ご褒美に卵をくれることは無い。しかし、いつの間にか我が家には定期的に届けられ、卵に不自由をしたことは無かった。

懐かしの昭和を描いているつもりが、ここまで余り伝わっていないと思う。当たり前だ、まだ5歳の頃の私に見聞する力など無い。ひたすら情景を描写するだけだ。現在でも田舎に行けば見られるような風景、森と畑と田んぼ、それにのどかな人々…特に我が家(預けられた家)の周りは広い敷地(東京ドームなら5~6個分はある、いやそれ以上の試験場が目の前にあるだけだ。

そんな子供の頭の中に残っていて時折、印象的に思い出されるのは午後の昼寝の時間に畳に寝そべって目をつむると木々の葉が風にざわめく音、何故か晴れた正午にラジオから流れてくるNHKの「ひるのいこい」のオープニングの音楽(これは今でも放送されているようだ)、雨の日に外へ出られなくて、廊下から雨戸を少し開け、じっと見ている庭の水溜りの水面が揺れ、船に乗ってどこかへ旅をしているように家が動く。錯覚なのだが、それがどこかへ行きたい夢に変わっている。

少し歩るき周ると友達も増えていった。同年齢はまだいなかったが、年下・年上…不思議なことに私の周りには女の子しか見当たらない。
彼女らとの遊びは「おままごと」とか、三輪車(私は持っていなかった)、人形遊び…と女の子主導である。遊び道具を持っていなかった私にとっては、それでも珍しいものばかりだった。そして、ある日、私は楽しい遊びを発見した。幼い頃に誰でも一度は経験するであろう…なんて偉そうに言える遊戯ではない。「お医者さんごっこ」と言うやつだ。


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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-5 [思い出]

昭和30年も10月になろうとしていた。私に弟が誕生した。4歳年下だ。序章でも紹介したように、名前は「実」である。何時も思うのだが、私が一番好きではない名前は自分自身である。父親は頭がそこそこ良かったらしく、学問が好きらしかった。3人の兄弟で「修」はオサメルの意味で一番努力をしなければならない。割に合わない名前は、人生を象徴している。兄は父方の親戚に行ったので消息はわからない。が、弟は私から見てノンビリ屋な性格なのに、何に対しても成功する。努力しなくても実ってしまう。一方の私は一生懸命(自身ではそう思っている)頑張っても余り大成しない。だから、自分の名前は嫌いだ!

残念ながら、その弟も他人に預けられた。黒川のおばあちゃんの紹介である。知り合いのその夫婦も裕福ではない。左官屋を生業にしている。毎日酒を飲んで酔っ払っている印象がある。しかし、二人とも弟には優しかった。と言うよりも真綿に包んで育てたと言うほうが正しい。育て方(躾)を知らないといったほうが正しいかもしれない。
貧乏人が育てたにしては、何も出来ない子供だった。これはその後にエピソードとして書くことにしよう。

私は12月生まれだ、それも26日。微妙な日に生まれたものだ。クリスマスの次の日…歴史を見れば、「毛沢東」「徳川家康」などの世を治めた人物がいるが、私は凡人以下である。
昔から「セント・ニコラス」の言い伝えはあるが、サンタクロースはコカ・コーラが現在の形を作ったとか。当時、その習慣があったかは覚えていないが、コーラはまだ無かった。
ちなみにラムネである。もう一つの炭酸水といえばサイダーだろう。近くの店にもバケツの中に入れ、水を流しっ放しにして冷やしていたのを記憶している。それを買いに行って飲んだ時の清涼感が良いのだが、家に帰って来たときには、また喉が渇いていると言う矛盾が脳裏をよぎった。何しろ片道15分かかるのだから。

ま、それは余談として、クリスマスにはプレゼントを貰うのが子供の楽しみである。昭和31年、満5歳になった……昨日(クリスマス)の朝は何も枕元に無かった。一昨日、それとなく欲しいものを口走っていたのだが、結局、失望感しかプレゼントしてくれなかった。それなら誕生日である日にもらえるのかといえば、それは甘い…何故に居候に金を出してまで喜ばせなければならないのか。裕福な家庭ならそれもあるだろう。
私の「その家族」は貧乏なのだ。おじいちゃんは一応、国家公務員である。しかし、学歴がない。下働きに高額な給料は出ない。不景気の今だから公務員は有利であるが、その昔は「公務員にはなるものではない」といわれるくらい安い賃金だったのだ。ボーナスだけは率が良かったようだが、基本給が安い閑職ではたかが知れている。
以来、私は18歳までプレゼントと言うものを貰ったことが無かった。さすが「恋人」が出来たときには彼女からはあったが、一番欲している子供の頃に欠落している喜びである。

中には何も貰えない子供もいるのであろうから贅沢は言っていられない。こんな愚痴を言うのは私の我が侭なのか。そんな中、毎年欠かしたことの無い、一種のプレゼントがあった。クリスマスケーキだけは家に届いた。
しかし、26日の昼にだ。どうして…なんて疑問は子供の頃には思わなかったが。母親がキャバレーに勤めていた関係である。大人の方は、いや男の方はもうご存知だろう。クリスマスの日に「そこ」へ行けば必ず売っている。ケーキ屋でもパン屋でもない飲み屋でだ。飲んで帰るのだから「家族に買って帰りなさい」なのだ。四角い箱を持って千鳥足の親父が帰路に着いている風景を見たことがあるだろう。
その夜は売れ残りのケーキが当然出る。それを持って次の日に母親がやってくる。一日遅れの私のサンタクロースなのか。

ある年、相変わらず律儀にケーキを持って訪れた君代(我が母親)、本当のところは私に持ってくるわけではない。「一年に一度くらい親らしいことをしろ」と言う、おばあちゃんの言葉に従っているだけだ。しかも売れ残りで。この人、育ての親には頭が上がらない。彼女の性格は後述しよう。
話を戻そう。届いたケーキ、おばあちゃんは直ぐには開けない。そのまま仏壇に供えるのだ。これがこの家の慣習なのだ。先祖には信心深い人だった。なので今日の誕生日にはケーキは出ない。数日の時間を経てお目見えするのだ。
この年も同じことが続いた。特別大きい箱だった。
2日後の夕飯に箱がちゃぶ台(テーブルと言うほどのハイカラなものではない)の真ん中に置かれた。

あっ、大事なことを書き忘れていた。当時、家の家族は4人だった。私を含めて。おじいちゃん、おばあちゃんと…次女である明子である。長女が夏江なので次の子は秋を一字入れるつもりでいたが、市役所で間違った親が明の字を付けてしまったらしい。当時20代前半、現在の私の娘と同じくらいの年齢だ。この人のことも後述するとして、4人の目の前の箱を開けてみると…そこにはべったりと平らになった液体が入っていた。まるでエイリアンのようにぷよぷよしていた。これがケーキ?

母親はアイスクリームケーキを持ってきたのだ。そういえば当時流行っていた。ドライアイスは入っていたのだろう、しかし、流石に2日はもたない。これは食べられない。ススルか? そんなことをしても美味しくない。当日開けていたらなんて思っても後の祭りだ。何となく大きい思ったのは断熱のための分厚い素材の箱だったからだ。今なら発砲スチールなのだろうが、その時は何だったのかはわからない。5歳の幼児には。

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「あえぐ夢」 懐かしき私の昭和 幼年期-4 [思い出]

その頃の私は一人遊びをするのが日常だった。友達が、特に同世代の男の子が近くにいなかったせいもあり、4歳の子供が遠くに遊びに行くわけにもいかないからだ。
おじいちゃんが大学の設備品を入れてあったダンボールを持ってきてくれる。それを連ねて並べると電車かバスになる。一番前に入れば運転手である。後ろなら車掌。間には誰もいない。想像の世界に入り込むのだ。このおかげで今、クリエイティブな仕事が出来ているのかもしれない。

ある日、突然に何故か木を切りたくなった。ノコギリを借りて、畑にある直径約20cm、高さは子供の頃の何倍もあった様に思う。毎日シコシコと数センチずつ…まるで大人になったような気がした。道具を使って何かをするということにだ。2週間くらいだろうか。いや、もっとかかったと思う。途中挫折しそうになりながらだったから。それでも何とか切り倒した。
書きながら思い出した。そうだ、風呂を炊く薪を作っておじいちゃんを喜ばせようとしたのだ。薪は乾かなければ燃えにくい。だからとそのまま放っておいたら、いつの間にか薪になっていた。おじいちゃんが作ったようだ。子供のやることを温かく見守って、やりきれなくなると黙って始末してくれる。私にとっては一人遊びの一環なのだ。

  

春になった。昭和30年、相変わらず私は4歳だ。大人になると短い時間も、子供の頃の流れは長いものだ。目の前に黄色い花が一面に咲いている。ここは私の遊び場であり、天国である。
畜産試験場の牧草地が敷地全体の50%を占めている。家畜の放牧と餌の確保のために季節ごとにいろいろなものを植える。春は菜の花かクローバーだ。菜の花は刈り取ってクローバーは直接、牛や馬などを放して食べさせる。

東京ドームの屋根を2枚連ねたようなスペース一杯に曲線を描いて遠いところまで広がっている。そこに、私の肩くらいまで育った菜の花。晴れた日にはそこへ踏み込む。なぎ倒しながら。少し暖かくなってきた太陽の光が眩しい。真ん中まで来た私は、ジャンプする、そのまま仰向けに落ちるのだ。バサッと。目の前は青い空、周りにはライトグリーンの茎とその上に花の黄色が揺れている。誰からも見えなくなる。私だけの世界だ。心地よい風と眩しさに目を瞑ると、そのままウツラウツラしてしまう。
本当の天国は知らないが、そこが私にとって幸せな世界だ。
ちなみに夏はトウモロコシ。人間が食べられる品質ではない、家畜用だ。私の背丈の2倍くらいに育っているそれが整然と植えられた間を小走りに通り抜けていくのは楽しい。中に入れば入るほど誰からも見えなくなって一人になれる。

何故、逃避が好きだったのだろう。
前話でおばあちゃんは気性が激しいと書いた。正に内面は厳しい人だ。私はにもそれは変わらなかった。おそらく預かった子供なので世の中に出しても恥ずかしくない教育をしようとしたのだろう。3歳までは要求しなかったが、4歳から私の生活は一変した。仕事に就かされたのだ。と言っても子供のやることだ。
今の子供ならまずやらせない事だが…朝、起きると雨戸を開ける。次に親(以後育ての親を単に親と言う)の布団と自分の布団をたたむ。押入れにはまだ力がないのでかたせない。部屋の隅に重ねるだけである。朝飯はない。別に食べさせてくれないのではなく、その頃のおばあちゃんは少し体調を壊していて、食欲が無いと作らないのだ。おじいちゃんは自分だけ食べて仕事に出かけてしまう。結局、私は今の歳まで朝食の慣習はない。

布団が片されると、ハタキを持ち出して家中を叩いて回る。勿論、私がである。その後茶殻か、新聞紙のぬらしたものを千切って撒いて歩く。埃が立つのを防止するのと畳の汚れを取るためだと教わったが、今になれば余計に汚れるだけだ。おばあちゃんがホウキで掃いて回った後は拭き掃除だ。これも半分は私の仕事。隅々まで気を配らないと怒られる。
春から夏、秋にかけては庭と道路に水撒きをする。井戸を使っていたので手漕ぎポンプで小さなバケツ(力がないので大きいバケツは使えない)に何回も入れて往復をする。何で道かと言えば、舗装でない道路は車(当時はトラックやバスばかりだが)が通ると埃が舞うからである。涼しさを得るための打ち水とは違う。

その後が私の遊び時間になるのだ。夕方にはまた掃除をする。「じいちゃんが帰ってくるから、綺麗にしよう」がおばあちゃんの口癖だった。朝と同じことの繰り返しだ。今、思えば異様に神経質だと思う。その後、私は風呂に水を入れる。先ほどの井戸から風呂場まで筒状のパイプを繋げてポンプを一生懸命漕ぐのだ。それで終了ではない。風呂焚きを4歳でやるのだ。新聞紙と薪で火をつけて石炭をくべる。その間、おばあちゃんはご飯の支度をしている。今の子供は多分やらないだろう。

彼女の考えは「これからは男とか女とかは関係ない、何でもできるようにしておけ」だ。進んでいるのか、こき使う理由なのかは今では判らない。数年後には私の仕事に料理と洗濯も加わる。
これも愛情だと子供心に思っていた。おじいちゃんは何も言わない。
他人から観れば厳しかったかもしれないが、私はそれが普通だと思っていた。

おばあちゃんは徹底していた。「お前は預かった子」であること。「恩を感じること」、「いずれは返されること」そうして、「お前の両親は不出来だ」と言うこと。そんな境遇で片親の私が曲がらないように(非行に走らない様に)教育していると言った。これも口癖だった。

一見、酷い育ての親だと思うかもしれないが、私は感謝している。なまじ優しくされて、後でしっぺ返しを食らうくらいなら最初からはっきり判っていたほうが、たとえ、幼くてもそこに一線が引けるからだ。私の幼い時の楽しい思い出は余りない。逃避をしている一人遊びの一時だけだ。

幼年期-3に登場した孫である明日香が来るとなると、さらに厳しくなる。ケジメだ。彼女には何もやらせない。当たり前だ、お客様なのだから。今ならわかる。私はといえば料理を運んだり、近場の商店に買い物にやらされりと、「何で僕ばっかり」と思ったことも確かだ。


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