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悲しき軽運送屋の顛末記-24 [顛末記]

E社に常駐するようになって数ヶ月、また一人D社(協会)から会員が入って来た。そこが特別忙しい訳では無いのに人ばかり増える。新人が入っても古株が居なくならないと私の条件は相変わらずよくはならない。


★Photoはイメージです。

その頃になってE運輸会社の営業所長が軽運送の会員を呼び出した。皆を集めると「明日から仕分けを手伝って欲しい」と正式に言ってきた。それは毎朝やっているじゃん!って思っていると「異論が無ければ朝、4:30から始めてくれ」とのこと。えらく早いなぁ、起きられるか心配だ…と誰もが無言で聞いていた。この業界は朝が早いのは当たり前、ま、仕事なら仕方ないか。なんて自問自答。
だが、疑問が一つあった。周りが余りにも静かで変な雰囲気、何で聞かないんだ?金のこと。まさかそんなこと聞くのはタブーってことはないだろう。稼ぐために自営している軽運送業者が格好つけてもしょうがない。
で、私が口を開いた。「時給、幾らですか?」…暫く間があいて、当たり前だと言いたげに「仕事出してんだから、サービスに決まってるだろ!」 私は開いた口が塞がらない状態になった。

十数年前(個人業者の権利が不安定な?)の話とはいえ、運送業の下層階級だから無給で私たちを使おうというのか。他の大手運輸会社のY社やS社では、当然のように「仕分け」専門に時給を払って雇っている。これには参った。しかし、皆、黙ったまま。当たり前なのか、ここは。
古株の年寄りも甘んじてこの状況を受けようとしている。権力のなせる業なのか。

確信は無いが多分この所長、我々の仕分け手数料(時給)を自分の懐に入れていると直感した。自分が私服を肥やす為に、弱い立場にいるものに無理を強いる。
私はチャントした仕事に労働力は惜しまない。たとえ、朝4:30にここへ着くために2:30に起きることになっても。しかしこの条件は破廉恥だ。いや、犯罪だ。推測でしかないが。
結局、殆ど(と言っても5人だか)の会員は次の朝から頑張って仕分け作業を行ったらしい。
らしいと言うのは、私と新人の二人はボイコットした。少なくても「経営」だ。無給の仕事なんて無い。その代わりに仕事を出すと言うのならそれは契約違反だ。相変わらず、私は6:30にE社に車を入れることにした。

所長も強くは言えない。そりゃぁそうだろう。自分が私たちの授受する金を搾取しているのだから。でも、それを分かっているのは私くらいらしい。こちらも皆に言いふらしたりはしない。証拠が無いのだから。ただひたすら耐えるだけだ。E社の従業員まで「手伝わない奴」と言う顔で見ている。当然E社の正社員達はその分、早出の給料は貰っているのだから文句を言う奴はいない。
そのうち本当に仕事を回さなくなった。さらに所長はD社軽運送の社長に苦情を訴えた。秩序がみだされていると。皆がやっているのに二人ばかり遅く来て…D社の社長は所長の悪事を知っているのだろう。「やれないか?」と一言だけ聞いてきた。強要は出来ない、所長は横領まがいのことをしているのだから、私たちに騒がれては困るのだ。

しかし、悪い奴はどこにでもいるものだ。こんな時に「水戸黄門」か「暴れん坊将軍」でもいれば退治してくれるのに。なんて冗談を言っている場合ではない。一週間に数回出る地元(E社以外)のスポットしか、仕事が無くなったのだから。だからと言って私もここまで来て後には引けない。中年は頑固だ、損をするが。オット、私の歳は秘密である。想像願いたい。

そのまま何ヶ月が過ぎてとうとう音を上げる会員が出てきた。すると所長は以前登場した軽運送協会のA社の人間を引っ張ってきた。会員同士で争わせ仕事の奪い合いをさせようと言う魂胆。そのために朝の仕分けを協力させるようと。チョット考えれば分かる理不尽、A社の会員もそんなにバカではない。この提案は直ぐに頓挫した。
結局、E運輸会社は時給1,000円で仕分けの求人広告を出し、我がD社の会員の中で最後まで頑張った古株二人を残して軽運送への仕事を出すのを止めた。つまり他のものはクビである。そのものたちはE社の親会社であるF運輸に鞍替えとなった。これで少しはよくなるのだろうか。

F運輸のそこの営業所はコンピューターを配送する仕事がメインである。勿論、他の荷物も扱わなければ会社として成り立たない。が、2階に綺麗で静かなフロアがあり、そこがパソコン本体とディスプレィの集積場だった。私はそこで働くことになる。家電店やパソコンショップで販売しない通販専門の世界一?(残念ながらSONYではない)売れているメーカーのPCの配送である。


★Photoは幕張にある双子のビル、ワールドビジネスガーデン。

[こんなことがあった、その17]
E社に従事していた頃、千葉県千葉市の副都心と言われるビジネス街の配達を受けたことがある。東京を回って千葉に入るコースだ。ここにツインビルと言う双子の建物がある。イーストとウエストに分かれているがここが分かりにくい。中のフロアのレイアウトがそっくりなだけではなく、各階もまたそっくり!真ん中を境に右へ行っても左に行ってもドアの作りも…唯一場所を確かめるにはドアに貼り付けてある社名のパネルだけ。しかもこれが四十数階あるのだから大変。今何階にいるのかは中央にあるエレベータの両側の表示を見る以外、方法が無い。しかし、このエレベータには業者は乗ってはいけない。これはお客用、我々配達業者はみーんな裏にある貨物用のエレベータを使うのだ。これを独り占めできれば良いが何十社という業者が一度に使うのだから待っているだけで数十分、一階上に行くくらいなら階段と言う手もあるが、大体上から下まで満遍なく荷物があるから始末に悪い。台車に山と荷を積んで運ぶので階段と言うのは辛い。しまいにどこにいるのか分からなくなる。

たとえばイーストの配達時に一つだけ間違えて、ウエストの同じ階数の荷物を持っていったら、下まで取り換える為に帰ると30分のロスになる。
そしてこれが問題なのが駐車場である。たとえこのビルの配送の車でも一時間しか停めてはならない(一般車と同じ扱い)。入り口にゲートがあって、これが機械式。人間なら数分のオーバーを勘弁してもらえても、相手が機械の場合は言い訳がきかない。後は有料になる。配達に時間がかかるだけでなく、車の駐車時間も気になるので神経を使う。行ったり来たりとチョット笑えるかもしれないが、本人は大変。もし、一時間をオーバーする場合、有料にするのを嫌うなら1回表へ出て入りなおすとまた一時間無料、だがその間に駐車場の空きが無くなったら路上駐車することになり、駐車料どころではない罰金を払う覚悟をしなければならない。一時間って誰が考えたのだろう。

ビジネス街の配達は分かりやすく結構簡単に思えるが、車を停める場所や荷物の管理に見た目より気を使う。駐車中に商品を盗られる恐れもあるし(いちいち施錠などしていられない)、軽運送の路上駐車の場合、大手運輸会社の配送車と違って警察も甘くは見てくれないのだ。

[こんなことがあった、その18]
私の後に入ってきた新人、車も購入したぱかりでぴかぴか。シルバーメタリックの1Box、大事にしてるのは見て分かる。この人も朝の手伝いを拒否したので余り良い仕事は回してもらえなかったが、ある日仕事が出たと嬉しそうに私に話した。見ていると(私は暇してた)、パレット(すのこ状の荷物を載せる台)に、なにやら重く大きな物体。人間が数人では持ち上がらない。それを乗せるにはフォークリフトを使わなければ無理だ。ところが1Boxと言うのはフォークと相性が悪い。何故なら跳ね上げ式のリアドアは屋根と水平くらいにしか開かない(勿論、サイドドアは幅が狭くてフォークでは利用できない)。リフトのほうは荷物を持ち上げるアームが荷物をチャント奥まで載せるには短いのだ(ドアのほうが長い)。無理をすると、そのアームを支えている縦に走るフォークの支柱が車の跳ね上げたリアドアに当たる。何とかフォークで半分載せて後は人の力、数人でずらした。床のシートは引きずられボロボロに、その下の塗装も剥げてしまった。相当重いようで荷台は沈んでいる。
大変だなと思ったが何とか運べそうだ…

それから数時間が経って、彼は返ってきた。車を停めて一目散にE社の事務所へ駆け込んで行った。暫くすると、落胆した彼が出てきた。
配達先でも、やはりフォークリフトを使われたらしい、それは仕方ないにしても、その運転手が下手だった。リアドアの位置を確認しないで、荷物を下ろそうとフォークを進めたらしい。想像は出来る。「バリバリバリ」だっただろう。帰りが遅いと思ったら、歪んで閉まらないドアを叩いて、引っ張ってと元へ戻す空しい努力をしていたらしい。
そのフォークの運転手に「修理代」を要求したらしいが、その配送先の会社(客)の見解は「こんな荷物を運ぶのに軽の1Boxで来るのが悪い、運輸会社に請求しろ」だったと言う。
そのため、その新人は営業所の事務所に飛び込んできたのだ。答えは当然のごとく「そんなもの知らない」で済まされてしまったらしい。新人だからこその先方の言葉を真に受けた行動だ。当然相手に直してもらうべきだろう。私は余計なことは言わなかったが…フォークの運転手が当たらないよう配慮をすべきである。商売道具である車を壊してまで、それが仕事なんて論外だ。

私も危なかったことがあったが、その時は他の人の手を借りて半分引っ張り出してからフォークを使わせ、ぶつからないようにシッカリ誘導した。自分の車は自分で守るしかないのだ。たとえそれが相手の責任にしても注意してもらう気遣いは必要だ。

彼の車がドアを半開きしたまま帰っていき、次の日、何とか閉まる様にしてきた後姿は歪んで醜かった。修理をする収入なんてあるわけが無いのだ。それは私とて同じことだが。

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悲しき軽運送屋の顛末記-23 [顛末記]


★Photoはイメージです。

運送業を始めるとボーっと待機している者もいるが、殆どの人が地図を見たり時間のあるときは自分なりの新たなルート探しをする。スポットといっても同じ場所に一ヶ月に数回いくこともあるし、一度行った住所に近い地域に行く事は希ではない。
なので慣れてくればくるほど便利に使うルートがいくつも出来る。東京方面へ行く時はこの道路。埼玉方面にはこの国道などと他の会員とは違う行き方を発見する。勿論、人の良い奴は教えてくれることもあるが、大体は自分のオリジナルを秘密裏に覚えるのだ。

配送のルートというのは時間的に早く(最短距離)、スムーズで(渋滞の無い、空いている)、出来るだけ安く(簡単に言えば高速道路や有料道路を使わない)目的地までいける道を探すのだ。
誰でも経験があると思うが高速道路に乗って快適に走っていると思ったら急に渋滞なんて事がある。が、その横を走っている一般道はスムーズに流れていたりして、料金を払っているのに…と悔しい思いをしたことがあるだろう。また、いつも混む交差点というのもある。万年渋滞である。信号の時間設定とか、多方面(右折車や左折車)の路線に入り込んでしまって動かないこともある。道の設計が悪いことが原因なのだが今更文句を言っても仕方が無い。立体交差にするとか、分岐路線があるところも増えては来ているが…
と言うことでそんな悪い交差点を使わないルートを探すのも仕事のうちだ。最短距離と書いたが、短いという意味ではない。ワザワザ遠回りしても時間的に短縮されればそれは最善の方法なのだ。そうして安ければそれだけ収入が多くなるのだからこれも重要。数百キロも走るのに高速道路を使わないわけに行かない。が、縫い物の針目のように空いた一般道と速く走れる高速(料金は距離で設定されているので途中で降りてまた乗り継いでも、そのまま直行するより損をするということは無い)を交互に使って間の料金を節約することは出来る。

話は前後するが、たとえば新東京国際空港から直ぐに高速に乗れる入り口がある。時間的には便利である。しかし、私はそこからは上がらない。高速道路というものはその建設時に必ず側道を最初に作る。材料やトラック・工作用重機の通り道にだ。これは後に広く整備されて一般国道とか、バイパスとなる場合があるが、見当たらないところもまたある。しかし、それは見つからないだけであって、殆どが残っている。だからといって「分からないほどになった道を通りなさい」とはお勧めしない。リスクが大きいからだ。

空港からの場合、高速の側道は警備上の関係からかあまり知られていない。雑木林の中、雑草に囲まれてそれはある。しかも狭い。多分普通車はすれ違えないだろう。なのに走っていると機動隊の監視所が2箇所見られる。いや見られている。不審者のチェック、道路への破壊工作防止なのだろう。「えっ、こんなところに」という心境である。しかし、特に停止させられるわけでもない。ひたすら走っていると途中で行き止まりになることもあるが、その手前に高速道路をまたいで橋があり、反対側に回るとまた側道が現れる。これを繰り返して、私が東関東自動車道で東京へ配送する時は佐倉インターまで高速料金を浮かせる。多分その先にもあるに違いない。が、あまりそればかりに頼っていて返って時間的に遅くなっては本末転倒である。千葉北インターまでの横にも側道はあるが、一般道のほうが便利なのでチョット分からない人のほうが多いだろう。地元の人以外は。

空港からだと茨城や東京外環道路~関越に向かう裏道も田んぼの中に農道として立派でスムーズに走れるところがある。近くの方は一度冒険してみると良い。とはいえ、皆が試せばそれはもう裏道ではなく「混んでる道路」になってしまうので知っている人には反感をかうだろう。


★Photoはイメージです。

[こんなことがあった、その16]
地元に帰って定期的に走る仕事で一番遠方に出向くのが山梨の甲府になった。それまでのスポットからすれば相当近場が多くなってしまい、収入も一段と厳しくなってきたが、これは率の良い仕事だった。「割の良い」と書かないのは、まさに率だからだ。特に料金が高かったわけではないが、収益が良かったのだ??

国際便で入ってくる荷物が空港に集まる。これは当たり前だが、千葉県習志野市にも税関の出先機関がある。トラックで東関東自動車道を使い直行でその場所に運んできたものをチェック。ここからも軽運送の仕事が出るのだ。

それは深夜に走る。連絡があると夕飯と風呂などのいつもと変わらない時を過ごして、一段落してから出られるので、これも体には楽だ。深夜走り通しで楽は無いだろうと思うが、昼間時間に追われて動くより、余裕を持って目的地に着けるのが嬉しい。そして何よりのメリットが高速道路を使わずに最後までいける。微妙に言えば一区間だけ使えばということになる。以前の顛末記で危なく崖に突っ込むところだった、あの高尾山経由のルートだ。なので途中の経緯は省く。兎に角夜明けまで、しかしゆっくりと東京都内の深夜は車の殆どいない道路をカセットテープから流れてくる曲にあわせて鼻歌交じりに…だから眠くなるのだが。

物は某大手家電メーカーの工場へ中型ダンボールを2個、そんなに重くは無い。その分ガソリン代も安くなる。重量オーバーの荷物は極端にガソリンを消費する。これは長距離になるほどバカに出来ないのだ。と、何とか眠気を飛ばしながら甲府へ入る段々夜が明けてくる頃に、私は高速道路へ乗る。あと一区間なのに…到着時間は午前8:30の指定だ。まだまた時間はあるし、腹も減ってくる。そうしてこれも以前の顛末記で書いた「トイレ」タイムなのである。明け方にやっているところを探す気力も時間も勿体無い。確か一区間250円。その間にサービスエリアがある。そこで時間調整と朝飯と…である。上手くいけば一眠りできる。荷物を運転席と助手席に一つずつ置けば、後ろの荷室はシングルベットに早代わり。私は深夜のこういう時のためにシュラフ(寝袋)を載せてくる。夏は後ろのドアを開けて、冬は下からのエンジンの温もりで結構快適に「おやすみなさい」。

工場に台車で荷物を運びいれ、社判を伝票に押してもらい深夜から朝一の仕事が終わり。後は帰るだけである。勿論帰路も一般道。数時間はかかるが、ぶどう棚などを見ながら緑の中の国道を朝日に照らされて、ゆったり走る時の爽快感はこの仕事の唯一の楽しみだ。
途中に大きな事故などのアクシデントが無ければ、空港と違い地元は距離的に近いので午後の便に間に合うこともある。そうすればもう一仕事だ。やはり「率」が良い。


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悲しき軽運送屋の顛末記-22 [顛末記]

このブログを初めて20回を超えた。そうして、ハタッと気が付いた。読んでいただいている人が向こう側にいると。
最初は自分のストレス解消のつもりで始めたのだが、総閲覧数で1,200以上に(ブログのアクセス数にしては少ないのだろうが)。重複している方もいるだろうし、自分でゲストから入った場合もあるだろうから三分の一と考えても400人の方々に見ていただいている。単体の閲覧数でも平均40はある。有難いことだ。こんなに読みにくいものを…
そう考えると、こんなんでよいのだろうか。とか、もっと話を膨らませて面白いことを書こうかとも思ってしまう。今までの話は真実以外ないし(多少の年月の思い違いとかはあるが)、皆さんを楽しませることが出来る文章は私には書けない。思いのたけをぶっつけているだけである。読み返せば同じことの繰り返しだ。
昨日「カミさん」が初めて私のこれを読んでいた。途中で「余りにも嫌な思い出だよ」それから暫く俯いて「せつないね」とポツリ。その後のため息…

総括で書くつもりだったが、始めの頃の顛末記で[東京まで行けば一万二千くらいにはなる]と書いた。そうしてその5割が純利益、つまり生活費になると。それが25日続けば十五万。「何とかやっていけるじゃあない」と諸兄は思うだろう。毎日続けばである。自分の車(設備)を使って半月も仕事があればマシな仕事。これでは食べていけない。結局カミさんがパートに出て助けてくれることになる。それまでの悠々な生活から一転したのである。
昨今の新聞には「景気、バブルを抜く回復」とある(一番の成長率はその昔のいざなぎ景気だそうだ)。「どこが?」と聞きたくなるほど今も生活の困窮は続いているのに。そうして私の「愚痴」は続くのだ。

空港の仕事が終わってから一週間はスポットの仕事が無かった。毎日D社には顔を出していたのだか。いい加減、私の顔を見るのが辛くなっのか翌週に連絡が入った。E運輸会社に行ってくれ、と。また仕事が出来ると思った。
翌日から朝、6:30にE社に着くようにした。空港と同じ時刻に。そこはもう、動いていた。社員への挨拶もそこそこに仕分けを手伝う。そこにはD社の会員が5人常駐していた。私は6番目である。皆が手伝っている。それをしてから仕事を貰うのだ。
一仕事終わって会員が集まって私を囲む、皆さんにご挨拶。70代が一人・60代が二人。その中の一人は、私が研修中(以前の顛末記にて)ポスティングでボス的存在だった人物だ。その後このE社に直行、従事していたらしい。あとは50代、…ってその顔ぶれを見ると、ここは窓際族の集まりだと分かる。空港で肩叩きを受け、姥(爺)捨て山に連れてこられた感じだ。

70代のその人は赤銅色の顔に筋肉の付いた腕、それだけでこの仕事に永く携わってきたと分かる。60代も同じ様子である。この三人は年金も貰っているのであろう。余裕がある。
そうして一番の問題は、またまた順番だ。皆同じ条件だから古くからの人間が優先的になる。順番と言うより良い条件の仕事、金になる仕事は古株が放さないのだ。私は当然新人に戻ってしまう。空港での履歴などは関係ない。場所は地元へと変わったが、また待機の日々が始まる予感がする。条件としては空港よりまだ悪い。空輸されてくる荷物がどんどん出てくるわけではないのだ。朝、大型トラックで来た荷物以外はよほどの緊急でなければ連絡など来ない。勿論、荷物もである。

唯一の救いは「先輩」達が優先的に遠方へ行っている間、他の一般会社依頼のスポットが数日に一つくらい入ってくる。それが私の命の綱だ。
面白いのは特に一般会社の場合、それなりの理由はあるだろうが極端な話、マッチ箱一つでも、荷室に目一杯積むような重量オーバーで大きな荷物でも料金は走行距離で決まるので同じ。
楽な時もあれば運転に神経を使い、積み下ろしに汗することもある。


★Photoはイメージです。
[こんなことがあった、その14]
その一般会社(運送会社ではないの意)からのスポットが入った。物はビル建設のための鉄骨のつなぎ部品である。
指定時間に行くと「チョット待っていてくれ」と忙しい工場内。今、まさに造っているのだ。真っ赤な火花が飛び散る中でハンマーを叩いている。「えっ、これを運ぶのか?」と心の中で…まだ鉄が焼けているのだ。車と言うのはガソリンタンクが荷室の下にある。鉄板一枚で。敷いてあるゴムマットだって解けそうだ。仕方ないのでダンボールを貰って何十にも重ねる。彼らは鉄の色が変わると「冷えている」と言った。そんなはずは無い。手では持てないのだから。ダンボールに載せればそこから焦げて紙の色が変わっていく。温度が下がったか云々ではないのだ、兎に角自分たちが遅れた作業を私に取り返して欲しい、つまり早く積んで出発して欲しいだけなのだ。これにはビビッた。後ろから焦げた臭いがするのだ。何時、ガソリンタンクが爆発するか分からない。それも荷室一面に重ね積みして半分くらいの高さまで積み上げている。窓を閉めていると汗が出てくる。後ろドアのウィンドウまで全開にして風を入れる努力をしながら走るが、物が鉄骨である。その量だけで700kgはある。ハンドルが振られて、そんなにスピードは出せない。
普通は温度がどんどん下がるはずなのだが、いくつもを積み上げてあるため余熱で返って上がっている気がする。少なくても室内の温度は。そのうち首都高の渋滞につかまる。走行風がなくなるにつれ、頭の後ろが暑い。いや、熱い!

車の事故で命を落とすのは、自分の責任なので諦め? もつくがこんなことで死にたくは無い。熱いはずの汗が冷や汗(私はよくこの手の汗をかく人なのだ)になっていく。今ここでブログを書いているということは、何とか東京のそこへ無事に到着し、火傷をしながら荷卸をしたのだか、軽運送の業者は相手を・積荷を選べないということだ。そこで嫌だからごめんなさい、ではプロの飯は食えない。


★Photoはイメージです。
[こんなことがあった、その15]
上記と同じようなことで、今度は食品会社に行った時のことである。年末の寒い日であった。その倉庫から荷物は出た。大きな一つの冷蔵庫が建物になっている。丁度空港の乗客が乗降するタラップの蛇腹のようなものにシャッターがついていてなるべく冷気を外へ出さないようになっている、何が出てくるか分からない。積荷が。私は嫌な予感がした。冷凍食品であるのは間違いない。とりあえず用意して来たビニールシートを敷いた。以前空港から船宿に「ゴカイ(魚のえさ)」を運んだことがあった。その時の経験からシートを用意するようになった。

私の勘は当たった。荷物は正月の必需品、「数の子」である。それも相当多い量だ。下に敷いたビニールくらいでは収まらない。冷凍食品を普通の車で運ぶと、解けて水が出てくる荷室一面が水浸し、しかも今回のは塩水なのだ。ま、後で水で洗えば、とその時は思った。
エンジンを掛け出る時になってチョット気になった。寒い日なので当然ヒーターをかける。するとさらにオカシイ。以前も書いたがエンジンが荷室の後ろにあるので床も段々温まる。冷凍食品に良いことは無い。そのうち強烈な臭いが立ち込めてきた。神奈川県の横須賀までの間のことである。この臭いに我慢が出来ない。が、積んでしまったものを今更どうしようもない。この時寒い中、窓を全開にし、届け先に一刻も早く着きたかった。
結局、私の車の中はその後一週間、いくら掃除しても臭いが消えず窓を開け放して走ったのだ。

「14」では熱で、「15」では臭いが原因で十数年経っても忘れられない思い出になっている。特に数の子の場合仕事だからそのくらいはではあるが、スーパーマーケットで買う一つや二つの量ではない。臭いがその数だけ倍加するとはこの時まで思わなかった。まずは1Boxの車をチャーターすること自体が間違いなのではないだろうか。幌型トラックならこんな悲劇はない。運送業はそんなもの、と思ったらそれは違う。会社組織の運送会社は大体が専属になる。その為の、それ用の車を用意する。そうしていつも同じ車が同じルートを運ぶのが通例。軽運送ならではの大雑把な配車である。

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悲しき軽運送屋の顛末記-21 [顛末記]

地元に戻った初日、朝5:00に起きてしまった。そう、空港に行くときの起床時間だ。慣れと言うのは恐ろしい。今日からはまた、自宅待機…なんだか気持ちが暗くなる。と、今までと同じ話の繰り返しでは面白みがない(本当は色々あるのだがそれは後で)。


★Photoはイメージです

今回は主題とは離れるが車(商売道具)の話をしたいと思う。
毎日の仕事に携わる手足なので全ての軽メーカーの車種を乗り比べてみた。運転席のスペースや着座姿勢、取り回し、装備などだ。

私の軽1Boxは「スズキエブリ4WDターボ」。運送に使うには贅沢なのかもしれないが、顛末記の中盤で述べたようにメリットは限りない。実際、スズキの商業用には「キャリー」と言う車種があるが、長時間の運転や視認性(運転席が高いため、視界がよい)・走行性、そうしてとどめは安全性が格段に違う。これは仲間の会員の商業車に乗って実感した。4駆はパートタイムと言う今で言えば当たり前のもの。ジープタイプとは違いフルタイムで四つの車輪を回しているわけではない。いずれかのタイヤがスリップした時に姿勢を補正するように駆動を助けるのだ。雪ばかりではなく、豪雨の中や泥道にも有効である。
ターボも運転に余裕が出る。67PS(馬力)と軽自動車の上限は決まっている、本当の潜在能力はこれ以上と考えられるがスポーツタイプの軽も横並び、が、「ヒューン』と言う軽快な音と共に後ろから押されるような加速感は、これを選んで後悔をしなかった。速さばかりを追求するのではなく、追い越し加速とか高速道路上、重い物を積んでの他車との流れに乗るための安全性、精神的な安心感は車両価格に替え難い物がある。
実際はシートもリクライニングする。が、荷物を載せるためには後ろのスペースを確保しなければならないので全席シートの後ろに境のバーを取り付けた(純正で取り付け可能になっている)。なので待機中はシートを倒して休むと言うわけにはいかない。助手席に足を伸ばして座る形でドアにもたれかかる体勢だ。足回りは重量オーバーのため負けていたと言わざるを得ない(トラックではないのでコイルスプリング)が、空荷で帰るときには軽すぎで暴れる…なんて評論家みたいなことを言っても面白くないか。

当時はエアコンが標準装備でない。あるのはラジオくらい。が、結局は後付にせよ会員皆が装備したことを考えれば欠かせない。労働の環境は出来るだけ快適なほうが良いに決まっている。特に夏は。

パワースウィンドウも考えたのだが、車内がスィッチの厚みだけ狭くなるのと、万が一故障した場合深刻になる。たとえば高速道路の料金所などで窓が開かなくなったら、逆に雨の中で閉まらなくなったら、その修理のための時間と修理費などの危険要素をはらませておくことは避けたかった。4駆だのターボなどと言っておきながら理不尽な話だが、あくまでも快適と安全のバランスは考えたいものだ。尚、パワーステアリングは私の車の場合、エンジンが荷室の下にあったため操作が軽く必要なかった。

結論としては、もしこれからこの商売を考えている方は少し奮発してもグレードの高いものを選ぶことをお勧めする(車種が決まっている軽運送会社もあるが)。中にはアルミホイールを履き、テレビアンテナ(ダイバーシティ)まで装備してワゴンタイプの黒ナンバーもあったが外見で変化をつけると趣味で運送をしていると思われるので気をつけたほうが良い。

車検は初回3年目が普通であるが、走行距離が多い営業ナンバーは2年目である。その間にも、当時は定期点検が6ヶ月・12ヶ月・18ヶ月とある。やらない輩も会員の中にはいたが、実施しなければ結局は車検時にしわ寄せが来る。自分の安全のためにもマメに受けておいたほうが安心である。費用は走行距離に比例すると思ったほうが良い。ブレーキ関係も、タイヤの減りも運転状況にも寄るが距離が多いほど消耗も激しいのは当たり前である。軽自動車だからと言って点検箇所は普通車と同じだし、部品点数も同じなので作業費用はさほど変わらない。唯一、非常に安いのは税金、乗用車タイプの黄色ナンバーよりまだ安い。現在も同じなのかが分からないので値段までは記さない。概算で8万から12万と言うことか。これはディーラーに入れての話。自分で出来れば格安になるが、安心料なのだからプロに任せるのが得策。くれぐれも私はディーラーの回し者ではない。

もう一つ気をつけるのは前にも書いたが、傷や凹みの修理である。自分の自尊心のための補修ではなく、商品をいかに丁寧に運んでいるかと言うお客の見る目が重要なのだ。板金修理は安くはないが
設備投資の一環と考えたい。幸い私の場合は外装のダメージを受けたことがなかった(非常に危なかったことはあったが「前述」)ので大きな補修はなかったが…走行しているだけで傷が付くことはある。これは軽運送と限られるわけではなく、自家用の普通車でも同じで、他車の特に大型車からのタイヤで拾った石が飛んでくる。ダンプカーの積載している土砂が走行風によってボティにパラパラと当たる。細かい塗装が剥がれる傷が結構付いているのだ。一年に一度くらいはタッチアップペイントくらいしておかないと、その部分から水分が入り込み内側から錆び、悪くすると腐ってくる。


★私の所有している車です。いえいえ実車(本物)をです。

塗装色の話をしよう。私の車はホワイトだった。あまり特殊な色は「らしくない」と敬遠される恐れがある。が、この白と言う色はなんとも悩ましい。日本人の一番の人気色だそうだが、以前は規制無しのディーゼル車の排気の黒煙粒子や道路からのタールやがやたらに目立つ。仕事が忙しく、掃除をサボっているとその「黒」が車体に染み込んで洗剤やタールを取る溶剤でも取れなくなる。一度雨が降ると茶色くなる…と言ったデメリットもある。現実に乗っている方には分かっていただけるだろう。
我が家の自家用車は濃紺と赤である。この濃い車も考えものだ。汚れは目立たないが、雨が降ると今度は白い斑点の跡が付く。こすり傷は下地が出てやはり白が目立つ。とどめはワックスがけの時の拭き傷で光によっては細かいつや消しの線が幾重にも付いてしまう。
では何色がいいんだ?
私の体験ではメタリックしかもシルバーがこのデメリットを隠してくれるし、運送屋にもフィットする色ではないだろうか。若い頃にブルーメタリックの車に乗っていたが、掃除のやりがいは無い代わりに雨の後などでも光っているだけ手間はかからない。
ただし、大きな傷をつけた場合はメタリックが一番色合わせが難しい、塗装の値段も高いことは知っておくべきだ。
どれも一長一短である。色に関しては覚悟を決めて自分の好みで選ぶしかない。


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悲しき軽運送屋の顛末記-20 [顛末記]


★Photoはイメージです

今まで空港内、特に貨物地区のことを詳しくは書いていない。余り微細に渡って書くと拙いと思うからだ。警備を厳重にしている場所ゆえに「秘密漏洩」と取られかねない恐れもある。なので、雰囲気だけお伝えする。空港だからと言ってそんなには広くない。正面に低い建物、手前に各運輸会社の入ったビル、奥に上下二段になった荷物倉庫といったところだ。その奥に例のトラック待機場があった。
入場時に手続き後パスを貰う、と言っても透明アクリルの中に番号のプレートが入っているだけである。しかし、常時警備員が巡回しているのでこれがないとお咎めを受ける。そんなこんなで、まずは手配係にご機嫌伺いに行く、順番の申告確認である。これをしなければ何時入ってきたか分からない、何時までたっても仕事が回ってこない。ついで会員にご挨拶、「私は何番目にきた」とアピールのためだ。ここまでの儀式を行ってから待機に入る。

会員たちと世間話をするが、ここは飛行場の一角である。兎に角ウルサイ!! 飛行機の離陸・着陸時のエンジン音は想像を絶する。会話が出来ないのだ。それも5分おきくらいに。正直言ってストレスが溜るほどである。地元のそれの近くにある民家には同情する。私は決して反対派ではないが。
表の顔である一般客の搭乗する旅客ターミナルとは少しはなれた、滑走路の真下が貨物地区なのだ。建物の奥、滑走路との間に駐機場がある。貨物機の荷物の積み下ろし場所でもある。
そこからトラクターが税関までコンテナをいくつも引いて行ったり来たりを繰り返す。建物の奥からも飛行機は見える。運送会社の社員の手が回らない時は伝票を手に荷物探しを手伝う。税関から排出される貨物は膨大な量なのだ。空輸された外国からの荷物はここから全国に配送されるのだから。

[こんなことがあった、その13]
荷物の配送は何もビルや住宅地、倉庫ばかりではない。「成田空港」から「羽田空港」と言った国際線から国内線への載せ替え、つまり飛行機への配送がある。
今回の行き先は大黒埠頭である。つまり船への配達。港にもゲートがあってどこに停泊しているか入り口で警備員に確認する。初めての港に行ってどこが何番なのかなんて場所が判る筈もなく、迷ってしまう。ましてや1隻だけが停泊しているわけではないのだ。船は連なって停まっている。
地上と違って番地がないのだから船の名前が頼り、なのだがこれがわからない。たいていは船首に書いてあるのだが、日本語とは限らない。伝票にはカタカナで記入してある。少しあせってきた、時間指定=出港時間なのだ。


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港の中で暇な奴は居そうもない。皆働いているのだから場所を聞くのもためらいがちになる。なんていっていられない状況になってきた。仕方がないのでフォークリフトを操っている兄ちゃんに聞いてみる。幸い二区画先らしい。
そこには貨物船が停泊していた。船名は何語? 英語でないのは確かだ。違ったら拙い、船の荷物を出し入れする大きなハッチ?? が開いているのでそこから恐る恐る中へ。実は船といえばカーフェリーくらいしか乗ったことがない。まして貨物専用なんて…広い! どうやら荷は降ろした後らしい。人がいない…静かな船内は余計に不安が募る。と、階段を下りてきた、多分船員だろう。話しかけるが通じない。英語のようだが、私は片言でしかわからないのだ。もっと勉強しておくべきだった、などと今更恥をさらしても仕方がない。兎に角、伝票に書いてある船の名前を言ってみる。yesと帰ってきた。嬉しい。ここで間違いはないようだ。

ここで、この荷物を置いてくるには条件があった。伝票に「キャプテン」のサインを貰ってくることである。荷物を取りに車に引き返し、時計を見るともう出航時間である。急いでその外国人に、「キャプテン サイン」と言ってみた。「OK」といって一つ上のデッキに私を連れて行く。そうして事務室のような中でガタイのでかい筋骨隆々マンにサインを貰った。が、しかしどう見ても船長には見えない。Tシャツ姿なのだ。「ユー・キャプテン?」と聞いてみた。答えは「no」である。どうやら連れて来てくれた船員の上役、チーフらしい。彼にとってチーフ=キャプテンだったのかもしれない。

「ノー、キャプテン サイン」と何度も言ってみた。あまり通じてはいない。私のサインで良いだろう、くらいにしか思っていないのだ。携帯電話で運送会社に確認してみるが、どうしても船長のサインが必要だという。仕方がないので手当たり次第に『ウェア イズ キャプテン』『フー イズ キャプテン』『キャプテン サイン プリーズ』と荷物と伝票を差し出してやってみた。出港時間はとっくに過ぎている。下のほうからはエンジンが回転しているような不気味な音が響いてくる。
このまま出向されてしまったら、私は密出国者、いや相手の国では密入国者なのだ。パスポートなんて持っていないし、ましてや運転免許証も車の中である。部外者である私がここに居る事なんて周りにいる人間しか知らないのだ。段々冷や汗が出てきた。どでかい船の荷物室に取り残されるのか…

その時、片言の日本語が聞こえた。「キャプテンのサインか?」と言われ思わず「はい」と答えてしまった私がいた。頷いたので分かったのだろう。指を上に向けて『Come On』とおそらくいったと思う。彼の後ろを追いかけて階段をどのくらい上っただろう、一番上の部屋に彼はいた。
船長だと確認してサインを貰うのに一時間、いや本当は30分かもしれないが長い時間に感じた。そこから大急ぎで今度は階段を下りる。「早く」と自分に言い聞かせながら。下についてハッチを見るとすでに少しづつ上がり始めていた。こんな時は足が速く動くものだ。50mを6秒くらいで中年男が疾走する。
そして飛び降りた。船から…電車からドアが閉まりそうになって飛び降りたことはあるが、まさか外国船からとは思わなかった。
冷や汗が本当の汗に変わった瞬間、船のハッチが閉まった音がした。

これが空港の最後の仕事となった。私の顛末記も終盤に入る。    続く…

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悲しき軽運送屋の顛末記-19 [顛末記]

2006年、ここのところまた新東京国際空港が騒がしくなってきた。開港以来二十数年だがいまだ「過激派」がゲートを突破したりして物騒なニュースがテレビで放送されている。、きっとまた警備が厳しくなったのではないかと思っている。仕事に入る業者達も大変だろう。


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空港に常駐するようになって3年近くの月日が経った。貨物地域も1.5倍に拡張された。その頃には待機しているトラックが邪魔になったのか端の方に待機場が出来た。大型用なのだが、私たちもそこへ車を停めて。掘っ立て小屋だが中には飲み物の自動販売機、テーブルと折りたたみ式の椅子、皆で仲良く? テレビを見られるようになっていた。勿論、トイレと警備員もいる。携帯も全員が自腹で常備させられ、現場からはそこへ連絡が来るようになった(今現在の出庫のプロセスはどうなっているか分からないが)。

逆に言えば現場から離れているので、しかも個人的に連絡が来るので順番を確認する術はなくなり、「えこひいき」されても分からないと言うデメリットも出てきたが、狭い車の中や冬は寒く夏は暑い(当たり前か)貨物場にいなくてもよくなった。勿論、その部屋はエアコン付きなので。
しかし決して待遇がよくなったわけではない。相変わらず、というよりライバル業者が増えただけ運送費がダンピングされていった。12,000円だった東京行きが8,500円まで落ち込んだのだ。ガソリンと高速代を使うと半額になってしまう。自給にすると800円くらいか。これでは他のパートと同じではないか、自分の車と言う設備投資をして「経営」している意味がない。流石に行きたがらない奴も出てきた。つまり、遠方の儲かる仕事が出るまでパスする会員だ。平等を考えれば出た荷物を順番に手配するのが普通で、たとえばタクシーもお客を選んで乗せるのではなく並んだ順に送迎していくのだから、条件の良い荷物が出るまで待つのは「ワガママ」というものである。中には細かい仕事を回数で稼ぎたい奴もいるので話し合いで譲るのを文句言う筋合いではないが。

その間にも新人が増え40名ほどに…私はどんどん古株になった。一日中冗談と世間話で何人もの会員が仕事からアブレ、無収入で定時まで待ち、そして帰っていった。そんな状況なのだから、一年以上経った奴は待機場にいて間を抜かされることが心配になってくる。勿論ベテランの社員も一人(以前の顛末記で書いた若い社員はいじめで辞めていった)になって漁夫の利を得たように自由奔放に振舞っていた。女性も相変わらず、チラリと顔をだす。何も変わっていないのだ。要らない奴の間引きも同じく変わっていない、切られた人間が次から次へ消えて行くだけだ。

そうして、私の肩叩きが始まった。暫くの間は私の地元の仕事が量的に増えてきた。つまり空港の仕事を徐々に減らしていこうと言う作戦だ。一日中、待機場で待つ時間も増えてきた。「おかしい?」と思い始めた。いや、私だけではなくアブレている会員が半分以上。また社長の悪い癖が始まったのだ。
これは黙っていられないと思ったが、すでに遅かった。社員と社長が話し合い、決めていたのだ。
「ここは人員も一杯だし、貴方の地元も忙しくなってきたらしいので、一度帰ってくれないか」と話を持ちかけられた。あれ、どこかで昔聞いた言葉だ。そう、地元にいたときに社長が空港に行けと説得する、あの言葉に似ていた。簡単に言えば、一応空港だけだがリストラの宣告だ。経済的にはギリギリだが、何もかもに慣れ体も楽になってきた頃になって「今月いっぱいで」と言うことになった。
そう、D社の〆は月末なのだ。

[こんなことがあった、その12]
いよいよ空港から引き上げる時が近づいてきたある日、成田の地元から仕事が出た。小規模の運送会社への助っ人だ。大型トラックに載せきれない荷物を2台の軽1Boxで応援に行くことになった。現地に着くと待っていたのは女性2人、一人は受付らしい。もう一人は運転手だろう。二人とも「茶髪」「ピアス」今でこそ当たり前だが、十数年前のその姿は確かにヤンキー上がりである。そこにはパレットにうず高く積んだ商品が…いくら古株と言っても運送業で言ったらまだ3年弱の初心者の私、その目から見ても絶対に軽自動車に収まらないほどの量である。
金を出して頼んだからには、一つでも多く配達させようと言う魂胆が見え見えだ。要するに自分が楽をしたいと言う事。私の車が四駆であることはすでに記したが車格で言うと荷を運ぶ純粋な商業車とは違い内装が施してある。床は一応ゴムマットで保護してあるが天井には軟らかい素材で標準装備の内装が施されている。2台の軽自動車には二人の女性によって商品がギュウギュウに詰め込まれ、さらにこれでもかと載せようとしている。完全な重量オーバー。しかも私の車の天井は傷とへこみで見る影もなくなった。
勿論、車は仕事の道具だ傷さえ付かなければどんな注文にも応じるのがプロである。ただ私には二つの理由で極力、車を綺麗な状態にしておきたかった。
一つはお客に気持ちよく荷物を迎えてもらいたいから。ヨーク見ると分かるが大手運輸会社のトラック(宅配でも)で凹んでいたり、泥だらけで配達に来る業者はいない。失礼なだけでなく、傷などがあれば「ウチの会社は荒い運転で商品なんかも粗雑に扱ってます」のイメージになってしまう。信用問題である。もう一つは3年も経てば45万kmの走行、そろそろ買い替えの時期である。私の車はそれでも艶は維持していた。暇な時には隣で寝ている会員の皆さんを尻目にシコシコと水洗い、ワックス掛けをしていた。そう、下取りに出した時にいくらかでも高額買取をして貰うためだ。だから荷物は自分で丁寧に積んで丁寧に運ぶが私のモットーだった。が、この仕事で見事打ち砕かれた。

配達が終わって帰ってきたのが、夜8時を回っていた。仲間の会員はまだ帰ってきていない。が、請け負った会社の女性運転手はとっくに帰ってきている様子。やはり自分の受け持ちは大分減らしたようだ。金を貰っているのだからそれも良い。が、次の日に空港の社員荷連絡が入り「あの人は二度とウチでは使わない」と言うコメントを頂いたそうだ。私も「二度と行くか」の心境である。それにもう直ぐ空港ともこの地元ともお別れだ。有終の美は飾れないが飾る気もない。
読む諸兄によっては「私のワガママ」ととられる方もいるだろう。特にこの業界の人は…しかし車は私の大切な資産だ。誰に傷つけられても自己責任で直さなければならない現実を考えれば、大切に扱いたいのも人情だろう。大工やそのほかの職人が道具を大事にするのと同じである。人にとやかく言われる筋合いではない。


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悲しき軽運送屋の顛末記-18 [顛末記]


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エコノミー症候群をご存知だと思う。またの名を「旅行血栓症」と言う。飛行機などで一定の姿勢(この場合は座席に座っていること)で長時間過ごし、下車? するとか、トイレに立つとかした時に血栓が肺・心臓・脳に動脈を移動し詰まらせる。その結果死に至ることもある、健康な人にも可能性のある疾患である。

軽運送の場合も同じ危険性をはらむ。飛行機で言うエコノミークラスよりまだ狭い、しかも背もたれが立っている座席に、長時間(長ければ十数時間に及ぶ)運転のための一定の姿勢を強いられるのである。配達の目的地に着いた途端に車を降り、荷卸にかかる。背伸びをしたりゆっくり運動をしている場合ではない。5年間もこれを続けていて、よく大丈夫だったと思う。連絡来た時には「嫌」だとか「疲れているのでゆっくり行きます」なんて口が裂けてもいえない商売だ。折角回してやった仕事を疎かにするな!!というところだ。

と言うのもその頃の、まさにバブルが弾けて不景気真っ只中、丸一日待機の状態が半月も続くことがある。立て続けに仕事が出た時は有難く頑張らなければならない。特に繁忙期には数日寝られないほど繁盛することもある…その後反動で暇になるのだからトータルするとさほどの収入にはならないのだが。

会員の一人が余りに仕事がないことで騒ぎ出したことがある。言ってはみるもんだ。その人、毎日のように仕事が与えられた。私たちが世間話をしている間も。
手配係が専属の仕事を探してきたらしい。つまり、その会員はいつもの仕事と専属の仕事を両方こなさなければならなくなった。寝る暇も惜しんで。一週間も続いただろうか。彼は音を上げず黙々と励んでいた、それはそうだろう。自分から欲したのだから。しかし余りの強行軍に配送の帰りに事故を起こし、車を大破してしまった。怪我は幸い軽症ですんだが、軽自動車一台廃車である(相手がどうなったかはしらない)。次の日に足を引きずりながら退会届を出したのは言うまでもない。余りにも仕事がないから文句を言ったわけだが、手配する社員からは「それ見たことか、欲を書くとこう言う事になる」と周りの会員に胸を張っていっていたが、それって少し違う気がする。上手く仕事を回すのも手配係りの技である。

[こんなことがあった、その11]
私はこの仕事で3度危ない目にあったことがある。もしかしたらこの世にいなくなっていたかもしれない。人間はどうしようもない場面にぶつかっても無理をするものだ。特に仕事となれば諸兄も経験があるだろう。

行き先は今となっては忘れてしまった。その当時のショックだけしか記憶にないのだ。空港からの行き先は多岐に渡り、北は青森、南は(西?)は兵庫まで流石に本州からは出たことはないが、一応長距離の部類に入る。そんな時は殆ど眠る時間はない。疲れもたまっているが以前にも書いたように時間厳守、次の仕事が待っていれば途中で休んでいるわけにも行かない。
そんな中で始まるのが「居眠り運転」勿論、道交法では疲労の運転は違反である。それを強要した会社も罰せられるが、個人業なので表向きは自分が請けた仕事になる。仕事を出した業者は無関係である。たとえ強要されたとしても。

場所は「高尾山の峠」を超えて配送に行くときのこと。時間は夜中の二時だ。皆は眠たくなったらどうするだろう、他の運転手に聞いてみたいが、私の場合はまずハードな音楽を聴く、それで駄目ならガムを噛む。これくらいは誰でもやっていることだろう。泊まって新鮮な空気を吸っている…なんて時間はない。とどのつまり自分を痛めつけて覚醒するのだ。頬をつねるなんて一時的、太ももを叩くのだ。それも音楽のリズムに合わせて。大きな声で歌うこともある。朝になってズボンをめくってみるといくつものアザが出来ていることは当たり前なほど頻繁にある。
しかし、本当に疲れている時にはその「叩く」行為さえ眠気の中に消え去ってしまう。「眠れ」と悪魔が囁き始める時である。何度かの繰り返しの後、とうとう熟睡してしまうのだ。生死の境はその時間の問題である。コンマ数秒ならば助かる。数十秒なら怪我か死だ。それも車と荷物を犠牲にして。「それは大げさだ」と思うのは昔の商業軽自動車に乗ったことのない人。前部のパネルを押すと分かる。1mmはないだろう。それほどヤワなのだ。私の場合は後ろにバイクがいた。深夜にしては幸運である。完全に側道を乗り越え狭い歩道も乗り越えていたのにもかかわらず、そのショックもわからなかった。その時追越をかけ警笛を鳴らしてくれたのだ、そのオートバイが。最初は何が起こったかわからなかった、が、直ぐに飲み込めた。危なかった、目の前にガードレール。その先は崖が迫っていた。彼にはどれだけ感謝をしても足りないくらいだが、後ろに付くのが恐かったのだろう。そそくさとその場を去っていった。私も警笛を鳴らし礼をいった。

行きはまだ少し緊張しているので、それでも何とかその一回で済んだ。問題は配達を完了した後である。特に冬の寒いが日が射している関東の天気が危ない(帰りは空港に向かっているので東日本は天気が良い)。仕事が終わった安堵感、外は寒いがヒーターに朝日の心地よい暖かさ。たいていは前夜、貫徹で走った時に襲ってくる。その睡魔を「早く戻ってもう一便」なんて頑張ると命取りになる。と今では分かるがその時には欲が絡んで、そんな考えは吹っ飛んでいる。朝、寝起きの一般車は元気なのだろうが、こちらは夢の中に近い。その時も夢を見ていた。渋滞なのでソロソロと流れてる車列が余計にゆりかごになっている。気が着いたときには急ブレーキだ。その音を聞きつけた前の車両の運転手が降りてくる、私も下りる。見ればバンパーの間は数センチ、何度経験したことか…幸い事故は起こしたことはなかった。それでどうしたと言われても仕方がないが、もし、朝の出勤の時に貴方の後ろに運送関係の車が付いたら場所を移動したほうが良いとアドバイスしておこう。

一番危機感を感じたのは、帰りの箱根越えである。山の上から降りてくることになる。


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確か夏だったと思う。大体、恐い思いをするのは夜である。幽霊とか、それらしいものを見ることもあったがそれは身体的危害があるわけではないのでそれほど怖ろしくはない(それでも自転車に乗った白い着物の男が側道から私の車に迫ってきて目の前で消えたなんてことはある、決して夢ではない)。深夜だが、眠気はなかった。関東平野に育った私には山越えの際の霧がこんなに凄いものだとは思わなかった。順調に箱根の旧道に差し掛かった途端、目の前が真っ白になった。急に囲まれたと言う感じである。30cm先が見えないのだ、本当の手探り状態。30分も走っただろうか、時速は10km/hのノロノロ運転、なかなか先には進まない。それでもガードレールやセンターラインを目安に気をつけて進む。が、それも見えなくなった。とうとう業を煮やして私は車を降りてみた。ライトは点灯したまま、無論フォグランプも点いていた。しかし、目隠しされて「鬼さんこちら」だ。車の前に回って一歩踏み出した、途端片足がずるずると沈んでいった。おっと、ともう片足を踏ん張ったが宙に浮いた1mは落ちただろうか。慌てて這い登って、今度は懐中電灯を…見えるはずもないが目を凝らす。想像の域を脱しないが漆黒の闇が広がっている。本来なら立ち木や草があるはずの足元にだ。舗装路をたどると急にカーブしていた。「どうしよう」このままでは動けない。が、停まっていたらおそらく後ろから来た車にぶつっけられる。車を置き去りにし、暫く歩くと広場があると分かる。足で探したのだ。数メートル離れたその場所まで車を移動することにした。ゆっくり、しかも慎重に。ハザードをつけてじっと待つしかない。兎に角、霧が晴れるまで…動けるようになったのは明け方だった。その間通り過ぎる車もあった。地元のよほど慣れている人なのかもしれない、ではなければ命知らずだ。結果、朝になって外へ出てみて私は鳥肌が立った。車の駐車場所に選んだ「そこ」は数センチずれていたらタイヤが落ちていた。そのまま芦ノ湖まで転落していたのだ。深夜歩いて落ちそうになった場所は絶壁の端でガードレールが丁度切れているところだった。そのままアクセルを踏んでいたら本当にあの世行き。良く停まったものだ、あの位置で。
帰りの高速道路代、数千円を節約するために危険を冒すことのおろかさを当時は分からなかったのだ。
再度繰り返すが、5年間の軽運送業を無事故で乗り切れたのは幸運としか言いようがない。仲間の会員が何人事故で消えていったことか。


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悲しき軽運送屋の顛末記-17 [顛末記]

軽運送の仕事は運転免許と資金が揃えば誰でも出来るのは本当だ。しかし、多大な忍耐と強靭な体力が必要なことも確かだ。特にスポットをやるにあたっては。

今回のブログはお食事中でしたらご遠慮ください。


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人には食べることと出すことが欠かせない。軽だけではなく、運送業全般でこの「出すこと」は実際の話、切実なのだ。今回は排泄の話。
東京まででも往復4時間くらいかかる。
人間は平均一日に、「小」なら8回だそうで16時間起きている(8時間寝ているとして)としたら2時間に一度行くことになる。我慢しても4時間くらいしかもたないだろう。まして、前の日に飲みすぎたとか冬場の寒冷時の配達にはもっと短い間隔ではないかと思われる。
行楽の高速道路上、渋滞で我慢したことは皆、経験があるのではないだろうか。

現在ならコンビニにチョット寄って済ませる。なんて事が可能だが、当時はどちらかといえば迷惑がられた。トイレの前には「レジに断ってください」と書かれているところならまだマシ。タバコかジュースでも買ってお願いする事もあるが、従業員専用が事務所の奥にあって、飛び込みでお願いしても駄目な場合も多かった。

だから、私はルート毎に2箇所から3箇所の公衆トイレの位置を覚えることにしていた。高速道路は数十キロ走ればサービスエリアがあるので安心だが、一般道となるとさぁ大変になるわけだ。まして、早朝とか深夜は殆どの店など昼間は可能なところも閉まっている(デパートのような)。だから一番確実なのは公園の公衆トイレ。それに24時間やっているガソリンスタンド。私が軽運送をやっている時、スタンドに行って10リッター以上燃料は入れなかった。リッター当たり15km走るとすれば走行距離は150km。一般道で大体3~4時間だろう。万が一の時、スタンドに飛び込めることを考えてのことだ。
ちなみにガソリンスタンドに勤めている知人に聞いてみたところ、ガソリンを入れなくてもお願いすれば快く利用させてくれるそうで、こちらが遠慮する事ではないようだ。借りる時は車の停め方には気をつけなければならないが(邪魔にならないように片隅にがマナー)。

平日のビジネス街って周りにトイレがない。が逆に運送屋はその作業着のゆえに裏技があった。
「大」でも「小」でも都会の真ん中でモヨウした場合、まずは伝票と小さなの荷物を手に持つ、やにわに車を駐車、ハザードをつけてテナントビルを探す。そう、大きな会社はまずい。ビルの全フロアが一社で占められていると入り口に警備員、一階の玄関奥には受付嬢がいることが多い。比較的中規模のがよい。中に入ると必ずと言っていいほど各フロアに数社が入っており(階段の前に案内のプレートが架かっている)殆どの場合トイレは共同になるので誰が入っても疑われない。勿論、監視カメラで警備員が見ている場合もあるがキョドってはいけない。あくまで堂々とトイレを探す。時々伝票を見ながら。数階のうちに一箇所は目的の施設はある。
つまり、「このビルに配達に来たんですよ」とアピールし「ついでにトイレをお借りします」にするのだ。たとえ警備員に咎められても伝票を見ながら周辺の住所を言ってその場所を聞くようにする。このビルだと思って入ってしまいましたの形式にするのだ。くれぐれも伝票の住所を警備員に見られてはいけない。

冷静に考えればいくらでも「その場所」はあるのだが、いざ運転しながら行きたくなるとパニックになる。到着先で借りればよいのだが、到着する前とか帰りに急にしたくなった時には辛いものがある。
もう一つのトイレが見当たらない場所が工場地帯(工業団地と良く呼ばれている。公園も無ければ上記の方法で借りるわけにも行かない)。工場団地の入り口には必ずどこにどんな会社の工場があるかの地図が掲げてある。こんな時はまず集積所を探す。材料を輸送してきたトラックが集まる場所だ。門衛がいなければ黙って入れる。必ず運転手用にあるはずだ。万が一警備員が受付をしていたら正直にお願いするのが一番良い手だ。案外OKしてくれる。

それではルートの途中が田舎道で周りは田んぼや畑ばかりだったらどうしよう。男で「小」の場合は割り切って「立ちション」、農家の人がいても目をつむってくれるだろう。だがここで注意しなければならないのは畑の中に入ってやってはいけない。道の端にある水路にもこれ見よがしにやってしまっては彼らも気持ちよいものではない。田んぼなどにその水が引いてあり、中に彼らが入るのだから。場所には気をつけよう。

「小」での最終兵器はホームセンターなどで売っている「携帯用」である。渋滞している高速道路では車の中で子供などは平気でしている。なので私も試したことがある。上着をひざの上に敷いて隠しての作業となるが、これがなかなか無理。洋式にやる感覚でするのだが、運転中にハンドルを握りながら、ましてペタルも操作しての…なんて出るものではない。しかし、持っているだけで安心感はある。一つは購入しておこう。結果一度も使用したことが無く、現在も自家用車のトランクの中だ。

考えてみると、一番大変なのは大型トラックの運転手だろう。一般道は車幅が狭い。やたらなところで停車できないし、コンビニやガソリンスタンドでも大型車が入らない場合が多い。それだけチャンスが無いと言うことだ。知り合いにそれを仕事にしていた奴がいたが8時間くらい行かないとか。体が慣れてしまうらしい。それにしても体には悪い。もしかしたら「携帯用」を用い運転席の後部の寝るスペースでやっているのか、国道などの広い駐車可能な場所を選んで。

貴方は高速道路のサービスエリアで朝、6:00~8:00のトイレに入ったことがあるだろうか。
男は小さい頃から「大」に対して恥ずかしいと思う人が多いという。なるほど女性はどちらにしても個室で済ませるが、男が「そちら用」に入るということは「大」をしますよと言っているのだから朝、自宅で行ったら一日、外では行かないという人も多いだろう。でも毎日快適な食生活・良い体調で過ごせるわけでもない。大人も良い歳になると図々しくなるので恥も外聞も無いが、それでも「大」をしてくるなんて女性の前で言える人はチョット居ないだろう。
話は戻ってサービスエリアのその時間は行列だ。特に男用の個室は「小」のスペースを取るので数が少ない。前夜からここで待機している運送関係者(実はこの場合が多い)はこれから配達に行く前に済ませようとする。その人達でいっぱいになる。中年以上の女性でよく男性用の個室に入ってくるツワモノもいるが男の場合、逆のことをしたら悲鳴の嵐になるだろう。だから静かに一列に並ぶ。我慢しながら。それも各ドアの前にではない、個室の手前に沿って一列に。欲したら皆、平等なのだ。誰が先でもなく、黙々と待つ。あいたところに順番に入る。そんなことを何回か経験すると「大」のほうの恥ずかしさなど無くなってしまう。

[こんなことがあった、その10]
私が神奈川県に配達に行ったときのこと、空港の税関から夜の9時に出た荷物を朝一で届けることになった。家に帰っても余裕はあるのだが、面倒なのでそのまま目的地に向かった。途中のコンビニで夕飯と朝食を買って。
朝の出発は通勤の渋滞があって時間が読めない、深夜の空いている時に走るほうが楽ではある。着いたのが午前3時頃。配達する住所を確認し、地図を見る。周りに公園を探すのだ。小さすぎるとトイレが無い。中くらいのところを物色する。広い公園は奥のほうにある場合があって見つけにくい。そうしてその場所に向かうのだが、目的の場所の周りは住宅地だった。地図ではどんなところか判らないのだ。私は公園の側道に沿って車を停めた。そうして狭い運転席で一眠りするのだが、寝過ごしてはいけない。目覚まし時計をセットして目をつぶる。運転した後に横になることも出来ずに眠るなんて出来るものではない、頭も興奮しているのだから。そのうちに夜明けが訪れる。朝食を食べると、私もモヨウして来た。
早速、公園のトイレへ。入って鍵を閉めようとしたら、何と壊れている。イヤ、鍵だけではなくドア自体がチャント締まらないのだ。しかし、今から場所を変える訳にも行かず、片手でドアの取っ手を持ってしゃがんだ、非常に変な格好だ。暫くすると足音がする。早朝なので犬の散歩デモしているのかと思ったが、段々こちらに近づいてくる。と、「トントン」ときた! 私は只今それの最中。「はい」としか答えられない。すると「何をしてるのか」と聞いてきた。えっ、ここですることなんて一つでしょ。と思い答えに詰まった。
すると「兎に角出てきなさい」という。ここで直ぐに出られる人は居ないでしょう。「チョット待ってくれ」と言って急いで済ませ、私はドアを開いた。
目の前に制服があった。そう、警官なのだ。公園の隣の住人が一晩中停まっている軽自動車と、そのドアが何回か開く音で不審者と思い警察に通報したのだ。初めての職務尋問。車の積荷と伝票を見せて理由を話す。しかし、その住所とこの公園が離れすぎているので疑いは続いた。トイレの中で薬物でもやっていると思われたらしい。結局交番まで連れて行かれ、その伝票に記されている会社が実在しているか、免許証で身元確認、荷室を開けて品物のチェック…おっと、約束の配達時間8:30に迫ってきている。何とか無罪放免してもらって急ぎ配達。

たかがトイレ、されどトイレである。車のドアを開け閉めしなければ、トイレに行かなければこの警官とも会わなくて済んだのだが、出物・腫れ物ところ嫌わずである。その後、私は公園も隣家から一番離れた場所に車は停め、ドアの開閉は極力静かにと心がけるようになった。

繰り返しになるが、この商売でこの行為が一番大変なのである。何か良い方法が無いものかといつも思っていた。これが理由でドライバーになりたくないと言う知り合いも結構いる。タクシーはさらに大変ではないのだろうか、近場が多いとは思うが、渋滞でモヨウしたときに客を乗せていると自由が利かないのだから。

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悲しき軽運送屋の顛末記-16 [顛末記]

今まで愚痴ばかり書いてきたこのブログ、「悲しき…顛末記」なのだから当然と言えばそれが当たり前なのだが、楽しいことが無かった訳ではない。勿論、金を取ることに楽なことは無い。諸兄にはこんな出来事ぐらいはどこにでも転がっている話、当たり前だと言うことだろう。軽運送をやる前のバブルの時の「本業」がスムーズに行き過ぎて余計に苦渋を感じるのかもしれないが。

スポットをやり始めると金と言うよりも、私の性格に向いている仕事だと思い始めた。空港での人間関係は楽しいものではなかったが、どこにもでもある摩擦である。しかし、荷積みして一歩そこから出れば時間以外の制約は受けず、誰にも気を使わず走る事の楽しみが得られた。毎日違う場所へ向かうのも面白いし、初めての土地と言うものは新鮮な気分にさせてくれた。ものは考えようだ、観光をしながら収入がある。と思えばたとえ夜中に寝ずの走行をしても気分が軽くなる。
もう一つは、多分運送業に携わっている殆どの人が感じる配送先のお客の「ご苦労様」とか「有難う」「気をつけて帰ってください」などの笑顔で見送ってくれる瞬間である。頑張って良かったと思うのは私だけだろうか。


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[こんなことがあった、その9]
空港からの仕事は3年間続いた。その間いろいろな方面に行ったが、その中のベスト3の感激した今も忘れられない情景がある。

●冬だった。空港の貨物地域にはその当時、余り遮蔽物が無かった。特に待機している場所には。空っ風に震えて仕事が出るのを待つグループが一つの塊になっていた。車の中でエンジンを掛けヒーターで温まっていれば良いのだがガソリンもかかるし、一人で待つより人と話をしていたほうが気が紛れる実は孤独な男達なのだ。私の順番が来て行き先は宮城県、仙台だった。この時期の北国に行くのは皆、嫌がる。当然道路の凍結や通行止めなどの困難が待っているからだ。一番恐いのは大型のトラックの荷台から飛んでくる雪の塊である。結構大きなものだ、それが道路上に落ちていても事故に繋がりかねない。しかし、仕事である。ここで次の会員に譲ることも出来るが、それは弱音を吐くことになる。
「意地でも行ってやる」と心に誓って荷積みにいく。荷物は大学の研究施設に運ぶ機材。ちょっと重い(これが後で功を奏したのかもしれない)。
とりあえず、湾岸から首都高、東北自動車道と乗り継いでいく。半分も来た所で雪が舞い始める、それがある地点から横に線を引いたように急に積もっているのだ。
すると、側道に止まる車が列になる。チェーンを着装するためだ。一般車は勿論、大型の四輪駆動車まで停まり始める。「えっ、雪に強いんじゃあないの?その手の車は…」で、私の軽自動車はメーター読み130kmで軽快に飛ばしていく。最初の資金を紹介した時に車の購入価格がチョット高いと思った諸兄は正解。実は四輪駆動仕様なのだ。しかしノーマルタイヤ、チェーンはチャント用意はしてきていたが不安が無い。ランクルとかサファリは重過ぎるのだ。一度横滑りしたら止まらなくなる。それに比べたら我が愛車自体は軽い。しかし、荷台の真ん中に重い荷物が載せてあるのでバランスが良いらしい。まずはこれがなんとも言えない優越感。「そんな馬鹿な」と思われるかもしれないが、良くテレビで放映されている四輪駆動車のトライアルレースなどでジープタイプの中、ジムニーが優勝することでも、実は車体が軽いほうが上手くトルクを使えば扱い易いと言うことなのだ。結局往復ともノーチェーンで走破してしまった。
仙台到着。目的地まではもう少し、「松島」を通っていくルートだ。しかも雪が降っている。観光者はまずこんな天候の日には行かない。だが、これが非常に綺麗!!、地元の人間しか見られない風景だ。勿論観光船は係留されたまま。無粋な観光バスもいない空いた道路をその景色に見とれながら大学へと…なんともメルヘンチックだ。休校だった閑散とした研究室に搬送し終わった時には晴れ間が出てきた。配達終了、帰路につくとまたまた違った松島が見えてきた。今度は島々に雪が積もり海にポッカリ浮いているように見える「白い松島」。その間に日の光が光っている。私は思わず車を停めて見入ってしまった。雪の日の神経を使う運転を忘れさせてくれる、こんな特別な風景を見られてなんだか得をした仕事であった。

●それは深夜に呼び出された。以前の顛末記で書いた「名古屋行き」の便である。そう、例の赤字になった配送、2ヵ月後の入金ではがっかりさせられたこの仕事もまた違った楽しみがあった。
午前零時を回った平日の東名高速道路は99%大型のトラックばかりである。1%が私なのだから前後左右をこの怪物に囲まれる。この仕事をしていなければ経験しないかもしれない。
やはり冬の初めで、その日は晴れていた。途中のサービスエリアで休憩を取りながら眠気と戦いながらの運転だ。一晩中の運転に疲れが出始めたその時、一瞬「夢だ」と思った。東名高速が浜名湖をぬうように走っている。私は目を見張った。夜明けの瞬間だ、今までにも地元では何度も夜が明ける風景は経験している。だが、ここのは違う!! 湖は「インディゴブルー」に静まり返っている。私の車の音だけが響く…ような雰囲気なのだ。周りの地平線はまだ夜の「黒」に沈み、その上の空の一部が鮮やかな「藍」に染まっている。さらにその上部は一線を画して「朱」から「白」にグラデーションしている。しかし、自分の周りはまだ闇だ。遠くの明度とのコントラストが素晴らしい。まるで印象派の絵画を見るような本当はあれは夢だったのではないかと思えるほどの心に残る風景だった。

●ベスト1の場所は静岡県掛川に行った時のことだ。行きは勿論東名高速、深夜から出発して朝一で品物を届ける。走りなれた道になった。完了したところで一眠り…なんて出来るわけは無い。即空港へ帰ればもう一仕事あるかもしれない。しかし、高速は使わない。ひたすら一般道(国道1号線)を急いでいた。とはいっても流石に疲れが出てくる。腹も減ってくる。どこか車を停められるところを探していると、目の前に「道の駅」の標識が。暫く行くと小さな(名前は忘れたが)平屋の建物と数台しか入らない駐車場が見えてきた。私は前夜に握り飯を作ってもらっている。いちいち外食をしていては出費がかさむ。個人業は節約なのだ! 車を降りて建物の中へ、そこは土産物屋である。片隅に軽食が出来るところがある。私は疲れのため少しうつ向き気味で行動していたのだ。そう、下を見ていた。柱には「屋上に上がれます」と書いてある。どうせ朝食を食べるなら明るいところが良いかと、折角のお誘いに上がる事にした。重い足取りで急な階段を登って行った。そこはタイル張りの床に、背もたれも無い木のベンチがあるだけ。下の国道では車の音が煩い。早速弁当を開いて一口頬張ったが、なんとも車の行き来が激しく(丁度通勤ラッシュだった)排気ガスがなんとも嫌になった。そこで後ろを向くことにした。裏は住宅街…と思って振り向いた瞬間、私の握り飯を食べている口が止まった。そこにあったのは画面いっぱいの「富士山」………なんともいえない荘厳な景色! 頂上には雪を被り山肌が深い青で朝日にキラキラ輝いている。バックの空は真っ青、他に何も見えないがその存在感の大きいこと。新幹線などで何度か見た富士山は通過の一瞬のだ。その時は額に入らないほどの壮大な絵画である。当然感激で後ろの車の音も掻き消えていた。

この出来事からは、もう十数年たっているがいまだに目の奥に焼きついている思い出である。

面白い話をひとつ。
私の話ではない。D社の会員ではあるが。仕事が出た、結構遠方への配達だった。場所は確か新潟か秋田あたり。季節は初夏、ドライブには丁度良い陽気だ。土曜日に積み置き、月曜日の朝一に配達という悠長な仕事。間の日曜日はお休み…ってこのチャンスを彼は逃さなかった。家へ帰ると自家用車に荷物を載せ変えた。今は下火になったが当時はワゴンタイプの車が流行っていた。荷物は充分積めるスペースがある。そうして日曜日の早朝出るのだ。助手席には奥さんを、勿論後ろの席には子供たちを乗せて。一泊二日の家族旅行に出発である。聞いた話なので詳しくはわからないがおそらく配達ルート途中の温泉場へ。
勿論、白ナンバーで客の荷物を運ぶのは違反だ。しかし、自家用車に荷物を積んで走っていても誰も咎めない。事故を起こさなければである。何事かあれば貨物保険も出ないし、おそらく営業権も取り上げられてしまうかもしれない。原則的に配達完了した空車は空港に戻らなければならな、定時までに帰れればである。だが、道路が渋滞しているとか、道に迷ったとなれば定時に帰れない場合もある。そんな時は当然直帰でよいのだ。空港に来ても誰もいないのだから。なので、彼は月曜の朝一に配達場所から少し離れたところに車を停め、台車に荷物を積んで歩いて受付へ。その後完了の連絡を入れれば日曜日から月曜日は家族団欒である。昼過ぎあたりに混雑していて帰れないと携帯電話すればノンビリ家に到着だ。
良い悪いは別として、たまにはこんな余禄もあってよいのではないだろうか、普段下請けとしてさげすまれている軽運送屋のささやかな仕業である。
勿論、次の日に出てきた彼の手には会員のためのお土産が握られていた。
上手く仕事が回れば結構楽しい、面白い仕事ではあるのだが。


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悲しき軽運送屋の顛末記-15 [顛末記]

顛末記-13で空港内は男の世界と書いたが一年くらい経ったある日、初の女性が入ってきた。この頃から他社の軽運送でも「目立って増えてきたなぁ」と思っていたが、とうとうD社の空港専門にも第一号というわけだ。

なんて書くと、おっ、これから私と彼女の恋愛物語が始まってやっと面白くなる。と思ったら残念でした。あくまでも顛末記である。
年のころなら20代、正直言って私の好みではないがそこは若さの力! 良い歳をした周りの男共がソワソワ。とはいえ、男の中にも結構若い奴もいる。独身が三分の一くらいか、そいつらには頑張れといいたいが、妻帯者には関係のない話だ。ま、一輪の花なのだからムサイ男ばかりよりは明るい雰囲気になるので悪いことは無い。ちなみに地元関係では(空港以外)何人かの「おばさん」が活躍していた。最初は皆、和気藹々で彼女も愛想良く仕事も過不足無くこなしていたので、安心? して見ていた。そう、初めのうちは…
しかし、この女性に一番目を光らせていたのは手配係のベテラン社員であった。勿論、奥さんはいる。息子も結構大きいのだ。どこの世界もそうなのかもしれないが、権力を握っているものに言い寄られると女性がどうなるのかはテレビのドラマと同じ。権力といってもたいしたことは無いが実際仕事を回すのはその社員が権限を握っているのだから、誰も恨まれたりしたくないのだ。余計な口は開かない。


★Photoはイメージです

と思ったら、一ヶ月くらい経った時期からその女性、空港内から姿が消えた。いえ、辞めたわけではないらしい。男達の接触を避けるように…そのうち、噂が立ち始める。「ベテラン社員とできてる」と。それからの彼女は風のように我々の待機している貨物地域に来ては順番を待たずに彼から仕事を与えられ、風のように去ってゆく。その様子を見ていると辞めたのではなく、噂が本当だと言う確信に近づかない訳にはいかない。逆に言えばベテラン社員が彼女を独占したいがために空港の外で待機をさせたというのが正しい。彼は嫉妬深いようだ、不倫の相手にも。
空港ばかりではない。彼女が暇になると彼も姿を消す。自分のコネを駆使して地元の仕事もとってきて与えてやるらしい。ま、そればかりで姿を消す訳ではない時もある、二人が同時に暇になる時もあるのだから、何をしているのやら?? 仕事さえキチンと貰えれば良い、私的には。

[こんなことがあった、その8]
深夜、突然の電話があった。空港からだった。予定が無い午後6時の解散後の私にはめったに連絡は来ないはずだった。何しろ片道一時間半もかかるのだから。とりあえず向かうことにする。
空港の周りには殆どの大手運輸会社の営業所とか倉庫等が乱立している。到着すると、空港内に彼女と「彼」が待ていた。仕事は運輸会社の倉庫から出るという。それも2台分。その場所を私は知っていたがワザワザ彼女のために「彼」が案内と称して合計3台の車で向かうことになった。
深夜のためその場所は薄暗く倉庫の中の明かりだけがこぼれていた。私は2台とは少し離れて車を停めた。税関を通った荷物を点検するため、1時間くらい待つということだったので私達は世間話などの当たり障りの無いお喋りをしていたのだが、15分くらい経つと社員に次の仕事の携帯電話が入ってきた。
しぶしぶ手配に行く「彼」。私と彼女が取り残された。都合、2時間待たされたのだが、その間なるべく距離を置いて待機していた私に彼女から話しかけてきた。内容はくだらないことだ。いちいち書くことも無い軽いものだったが、一時間半くらい経った時にその社員が帰ってきたのだ。遠くからえらいスピードのエンジンの音が聞こえたので振り向いたら「彼」だった。そこまでは平和なひと時だったのだがその人の形相を見た途端思わず引いてしまった。ぎらぎらした目、恐いほどの迫力で息せき切って車から降りてきた。「何を楽しそうに話していたの?」って変な勘ぐりをしてきた。暗い場所で一時間ほど二人っきりになったからって、私には彼女に対して何の好奇心も無い。しかし、彼は完全に疑っている、自分が置き去りにしたクセに。
ワザワザ連絡して来させたのは私が安全だからだと思ったんでしょ、と言いたい。しかし、その本心は地元の男性会員を呼んだのでは、余計に疑われると思ったことと、万が一遠方の私と仲良くなっても「夜のデート」など出来ない、と踏んだらしい。愛に狂った男は恐い!!
何の根拠も無いことを妄想して計算するのだ。一時間の間に親交を深めたかと疑う根性が情けないと言うか、私としては「馬鹿みたい」の一言である。

その恐さは次の日から始まった。前回、書いた派閥や村八分の始まる前の話である。ベテラン社員は無視に近い態度で私に接した。それでも私の口から昨夜の変な態度を振れ回られるのを考えてか仕事は順番どおり出すのだが。
余りにも無視した結果、数週間後彼にとってアクシデントが起きてしまった。彼女のために取って置いた「美味しい仕事」を間違えて若い手配係が私に出してしまったのだ。東京までは普通良くても一万五千円くらいの料金なのだか、それは2万ほど貰えた。
これを知ったベテラン社員は激怒した。私にではなく、若い社員にだ。「勝手なことをした」「何で私に相談しない」…後は罵詈雑言。こちらで見ていても可愛そうなほど。
普段「早く一人前になれ!」「一人で手配してみろ」なんて言っている人とは思えない態度、周りの会員だけでなく他の業者も不審な顔をしてみている。どう見ても異常としか思えない。
そうして、その日のうちに怒られた若い手配係はやめて行った。私は引き止めて「仕事は返す」と言ったのだが、考えてみればこの日の事件だけではない理不尽な扱いが原因と告げた若い彼は空港から居なくなった。それは彼にとって良かったのかもしれない。
ベテラン社員はこの事件で心のモヤモヤを解消したのか、私に対しての無視はなくなった。しかし、心の根底にはあの夜のこと+今回の事件の二重の恨みを私に持つことになる。


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